原題は“The Testament of Mary”。「マリアによる聖書」とでも訳せばいいのだろうか。マリアは頭に「マグダラの」とつかない方のマリアである。ブッカー賞の候補に挙がったそうだが、冒涜的だという批判の声が上がり、候補にとどまった。作者コルム・トビーンはアイルランド人。カトリックの国でこういう本を書くのは勇気がいることだろう。特に宗教批判をする意識はなかったようだ。もし、扱われているのが、「あの方」の母親でさえなければ、一人息子を亡くした母親が、息子の死んだ日のことを何度も聞きに来る二人の男を煩わしく思う気持ちに何の不思議があろう。たとえ、その二人がヨハネであり、パウロであったとしても、だ。
知っての通り、キリスト教という宗教が世界宗教になったのは、キリストの死後のことである。自分が腹を痛めて産んだ子が周りに群れ集う輩に「神の子」と呼ばれ、崇め奉られる契機となった磔刑を目にした母の様子は聖書にも詳らかでない。福音書を書いた四人の弟子がすべて男だったからかもしれない。
年老いて死を前にしたマリアが、あの日々を追憶する。気持ちのいい若者だった息子が、エルサレムに行ってからというもの、少しずつ物言いが変化し、人の出入りがふえるにつれ、話が講話じみて身ぶりが大げさになってゆく様子に、母はなじめなかった。その言動が不穏視される息子のことを心配してくれる人がいて、呼び戻すために訪れたカナンの婚礼の席で、息子は知らない人を見るようにマリアを見、葡萄酒が足りないという声を耳にすると、壷に水を入れて持ってくるように命じた。
聖書が語る奇跡がその場にいた平凡な一人の母の目から見るとどう見えるか。作者は大仰な書き方を避け、穏当な筆遣いで淡々と起きたであろう事実を記す。一度書かれてしまい、多くの人々によって承認されたものは規範となり、批判を受けつけない正典となる。世俗の歴史書然り、聖書また然り。キリストと呼ばれる前の男はマリアにとってはただの息子であったが、使徒たちにとっては師でありカリスマである。彼の死後その言動は福音書の記述となって世界中に広がっていく。
仮令そこに悪意はなくとも、正典となったものは人を縛る。世の中は絶えず動き続け、かつては弱者であったり、少数者であったりした人々がそうではなくなる日が来る。女性がそうであり、同性愛者を含む性的な意味での少数者がそうだ。ところが、時代の移り変わりに抗して変わらないものがある。宗教もその一つである。預言者が男性であるからか、男性優位の教義を持つ宗教が圧倒的に多い。この作品におけるマリアは、イエスの母でありながら、福音書記者からは明らかに冷遇されている。それだけでなくつまらぬ発言などせぬよう隠微な監視を受けてもいる。
この作品におけるマリアは、一人の母であるとともに一人の女でもある。神の子の母と見られることを忌避しこそすれ、聖母などと呼ばれたいとはつゆほども思っていない。人並みに恐怖心もあれば、後先考えずに走りもする。後の福音書でどう書かれようが、そんなことは知っちゃいない。だいたいすべてはあの男たちが考え出したことではないか。一説ではマリアはキリスト降架後エフェソに移り、晩年を過ごしたとささやかれる。本書でもマリアはエフェソで暮らしアルテミス女神を信仰するなど、反パウロ的色彩が強い。
歴史はことが起きた後に力を得たものに都合のいいように記される。神話がそうであり、経典もまた同じである。神の名によって人を縛るものが、実は神ではなく権力を持った人であり、正義の名において人に命じるのが時の権力者であることは少なくない。多くの人に信じられた「正義」や「大義」の名によって、死地に赴くわが子を見送らねばならない母にとって、聖書に書かれたマリアの姿は果たして満足のゆくものなのか。
ことはキリスト教やジハードを奉じるイスラム教に限らない。多くの日本人のように信仰を持たない者にとっても「正義」や「大義」は存在する。意義深いと考えられることに我が身を投じる息子を、誇らしい、と語ってみせる必要は必ずしもないだろう。世間がどう思おうが、「あなた」は母である前に女であり、その前にひとりの人間である。何も女性に限らない。多数者や声高に語る人々がよくは思わない人々が、ありのままに生きることを許さない、不可視の大きな「力」に、このマリアは抗しているのである。冒涜の声が上がることは作者も想定内であったろう。それでも書く。発表する。刊行する。世界の国がそれを翻訳する。私が読む。あなたが読む。それでいい。