映画『スタンド・バイ・ミー』風にはじまるのが、表題作『善き女の愛』。春の朝、三人の少年が初泳ぎを自慢するために出かけた川で見つけたのは、近くに住む検眼士のウィレンズの死体だった。第三者の視点でひとしきり小さな田舎町を素描したかと思うと章が変わり、視点人物は訪問看護婦イーニドに移る。彼女が今看ているのは、同級生のルパートの妻ミセス・クィン。死が迫っているせいか片意地で我儘な患者に手を焼きつつも、常に善行を心がけるイーニドは誠心誠意務めを果たす。寡夫になろうとする男と奉仕活動のせいで行き遅れてしまった女との間に何かが起きるであろうことは、読者にも予想がつく。それを知ってか妻は死に際にとんでもない告白をする。
どこにでもありそうな静かな田舎町の上辺を繕っている覆いを剥ぎ取ったら、恐ろしい真実が現われる、というのはアメリカによくあるスモールタウン物の典型だが、全く別と思っていた話が、突然目の前に現われた川の情景で一つに結ばれる。告白の真偽が疑わしいのは、紹介済みの患者のねじくれた性格から予想される。イーニドの揺れる心が最後に選択したのはルパートと二人でボートに乗ることだった。暮れゆく光の中、隠してあるオールを探しに男は姿を消す。残された彼女を静寂が包む。息の詰まるようなラスト・シーンに言葉をなくす。
人物の心情や心理が嘘やごまかしなく的確に描かれている。周りからはその善行ゆえに聖女のように見られているイーニドだが、自分を汚らしく思えるような夢も見る。善行を積んでいるように見える生き方も、父や母との確執があってのことだ。どの登場人物もただの善意の人であったり、優れた人物には納まらない。物には裏表があるように、人にだって表面の笑顔の下に隠された思いや自分でも気づかない欲望や野心が埋もれている。
一人の人間が出来上がるにはいろいろな条件が左右し、人はそのなかでどう生きるか、どう生きればよいかを思い悩む。人が一人で生きていないように、成長する過程で親や配偶者、またその兄弟姉妹、さらには我が子、との間に必ず葛藤が生じる。アリス・マンローの短篇小説は、誰にでもある家族という核を中心に構成される。休暇旅行や帰郷といった日常性の中に時折り訪れるふだんとは異なった状況に人物を放り込み、そこに立つ小さなさざ波がしだいに輪を広げ周りのものを巻き込んでゆく様を、細部を大切にしながら丁寧かつ細心の注意を払って観察してゆく。
はじめは静かな佇まいを見せていた状況が、次第に募ってゆく人々の意地悪い視線や不寛容な言動によって、それまでの均衡を保てなくなったとき、事態は起きる。ずっと隠されていた秘密が暴かれ(「善き女の愛」、「コルテス島」、「変化が起こるまえ」)、危険が身を包み(「セイヴ・ザ・リーパー」、「腐るほど金持ち」、「母の夢」)、思い切った行動に走る(「子供たちは渡さない」)。
主人公は女性、それもかなり知的で、読書や音楽、演劇に親しみ、読んだ本のことを人と話したり、自分でも何かを書いたりすることを好む。周囲は善意の人々であるかもしれないが、地方の変わり映えのしない暮らしに慣れており、彼女が持ち込む知的な印象を、あまり感心しているふうではない。主人公は、一見それを受け入れているように振舞うが、内心では全然納得していないのは、たとえば一番身近な両親にははっきり反抗的な態度をとることでそれと知れる。
知的で自立した女性が、あまり都会とはいえない土地で周囲の因襲的な視線に囲まれて暮らすうちに溜め込んでゆく反感や抵抗、とそれが原因で起きる破局を、これぞ短篇小説という抑制された筆致で一気に終末に落とし込む。八篇のどれをとっても、鋭い人間観察力、肺腑を抉るような心理描写、切れのいい会話、時代背景が浮かぶ細部の描写、日常に亀裂を走らせる戦慄的なラスト、といずれ劣らぬ見事としか言いようがない手並み。大人の読者を満足させに足る短篇小説集である。