marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ヴィーナス・プラスX』シオドア・スタージョン

ヴィーナス・プラスX (未来の文学)
気がつくと昨日と同じ服を着たまま見知らぬ部屋にいた。男の名前はチャーリー・ジョンズ、二十七歳。すぐに分かることなので説明すると、チャーリーがいるところは未来の地球。核戦争で絶滅した人間に代わり、ドームで覆われた世界レダムに暮らしているのは人間に似た別の種族。彼らが人間とちがうのは、両性具有であることだ。チャーリーはレダム人の世界について客観的な意見を述べるために選ばれてここにつれてこられたらしい。

レダムについて学習を終え、感想を述べることができたら解放され、もとの世界に戻れるという。チャーリーはレダムの歴史学者フィロスに案内され、施設を見学する。そこにあるのは、地球人をはるかに超えた科学水準を持ち、平和に暮らす人々の姿だった。チャーリーは学習が進むに連れ、レダムに親近感を覚え、トランスジェンダーの世界にもなじんでいくのだった。

いかにもSF的な設定で、異世界に紛れ込んだ地球人が、自分たちとは全く異なる世界に間近に接し、それまでの自分が抱いていた世界観を根底的に揺さぶられ、意識改革を迫られる寸前まで行く。ところが、そこで新たな事態が発生し、主人公はかつて住んでいた旧世界にもどらざるを得なくなる。主人公の価値葛藤を通し、今ある世界――というのは、概ね60年代のアメリカを中心とする世界だが――の是非を問う、現実の世界に対する問題提起を執筆動機とする長篇小説である。

主人公は、白人男性のキリスト者。問題にされているのは、西洋的価値観の根底にあるキリスト教と、それに付随するようにして現在にいたる男性中心主義である。レダム人は両性具有者同士の結婚により、双方が妊娠し双子を出産する。過去ではなく、未来を尊ぶレダムの人々は、子どもを信仰対象とし、知的な作業については時間短縮をはかり、独自の学習機械を用いて学習させるが、日常生活は手作業を主とした環境下で育てられる。このレダムの世界は一種のユートピアであり、科学技術万能で、人間らしさをスポイルされた現代社会批判になっている。

小説の構造的には、同時進行で現在のアメリカ家族の実態が、章が変わるごとに挿入される。現在アメリカ編では、互いに愛し合い結婚していても、男と女は別の生き物で、そのジェンダーには明らかな差がある、ヘテロ・セクシャルを強調する場面が描かれる。二つの世界が対比されることで、本編の視点人物であるチャーリーへの過度な感情移入を中和する役割が期待されているのだ。SF的世界の現実批判のぶっとんだ趣向に疲れたところで、洒落やジョークを主体とするコメディ・リリーフの登場となるわけである。

男性と女性には差より共通する部分の方が多い、という理論や、多くの生き物における交尾の多様さ、原始キリスト教アガペー論等、よく勉強しているなあ、と思いはするものの、大事なところは講義調になり、物語の進行からは遊離しているように見える。自分が肯んじ得ない世界に無理矢理放り込まれた人間が時間の経過により意識や感情に揺らぎや葛藤が生じ、転向に至る人間ドラマが、存分には描ききれていない。もともとアイデア主体の短篇向きの作家なのではないか。どんでん返しに見せるキレのよさ、話の落としどころ、ミステリにも似た問題解決の鮮やかさからは、そんな感想を持った。

単純な異性愛を持ってよしとする固定化した性意識を疑わない社会が持つ息苦しさについては、ようやくこの国でも気づかれては来ているようだが、理解者が増えればそれに対する風当たりもきつくなる。作者はキリスト教を中心に据えた西洋の歴史的なあり方を批判の根拠に据えているが、決してキリスト教的論理を主とするとも思えないこの東洋の国においても、男性中心主義や同性愛者その他の性的少数者への偏見については西洋諸国に引けをとらない。

少し前の本だが、問題とするところは決して古びていない。固定化された過去をではなく、つねに変化、移行(パッセージ)を信条とするレダムの精神に見られる清新さにはある種の感銘さえ受けた。ユートピア物SFと見せかけて、最後にあっといわせる手際など、堂に入ったものだ。久しぶりにSFらしいSFを読ませてもらった気がする。