短篇小説というのは、雑誌などに他のいろいろな記事に交じって掲載されることが多い。短い頁数の間で読者に何がしかの感興を抱かせなくてはならない。書き出しにつまづいたら読者は放り出し、次の記事に目を移す。うだうだと御託を並べたてる暇はないのだ。そこで一気に読者をつかむためには思いっきり突飛な話題をぶつけるに限る。少なくともトピックがめずらしいものであれば読者は目をとめる。あとは、だれることなく関心を引きつけておけば結末まで読んでくれる。
だからといって、作家も人間だから次から次にと好き放題に面白いネタを取り出すというわけにもいかない。そこにはその作家ならではの特徴や個性のようなものがおのずから滲み出てくるものだ。ケヴィン・ウィルソンの場合、それは、他者との間に設けられた微妙な距離感ではないだろうか。人嫌いではないのだが、人との関係を上手く保つために、できたら他人との間に距離を置いておきたい、というような。それほど難しい要求ではないが、周りが理解しない場合、厄介な状況に置かれることになる。その切ない状況の細部を際立たせることで読者を主人公の心情に共感させる。
「替え玉」は、核家族対象の祖父母派遣サーヴィス会社のスタッフである五十代の女性が、祖父母との関わりを持たずに育った孫のために代理の祖母となって面会する仕事を扱っている。依頼者である身勝手な夫婦の態度に憤った「わたし」はついにタブーを侵してしまう。気ままな独り暮らしを選んだ独身女性がいくつもの仮の孫との疑似体験を経るうちに遂げる心境の変化を描く。祖父母派遣会社というアイデアが現代の家族問題を照射して秀逸。
「発火点」は、三年前に両親を「人体自然発火現象」で亡くした「ぼく」が、リストカット常習者の十六歳の弟と共に生きる日々を綴ったもの。両親の発火原因が不明で自分もいつか発火するのでは、という不安を抱える「ぼく」が勤めるのが、《スクラブル》のコマを作る工場。機械が吐き出す雑多な文字の中からをQの字を選り分けるのが仕事だ。作業の工程と作業中の心理がリアルに描き出されることで、その圧倒的な徒労感が胸を打つ。弟の自殺、自分の発火に脅えながら藁の中から針を探すような仕事に耐えるストレスを癒すのが製菓店の娘との束の間の逢い引き。娘の髪に残る菓子の香料の移り香があまやかだ。
「あれやこれや博物館」の管理者兼従業員である三十一歳の「わたし」は、今はやりのミニマリスト。自分の周りには何も置きたくないのに、がらくた同然の日用品を展示する博物館で働いている。そこに水曜日の昼になると展示品であるスプーンを見に来る初老の医師がいる。二人を結ぶのが、ウィリアム・サローヤンのコレクションだ。がらくたにしか思えない輪ゴムや石の展示の仕方を真剣に考えるなかで、他人にはがらくたに思える物も、集めた当人にとってはかけがえのない物であることを、「わたし」は、やがて知ることになる。
表題作のタイトルは、ちょっと大げさ。大学を卒業したばかりの三人の男女は毎日主人公の家でゴロゴロするうちに裏庭に穴を掘ることを思いつく。ある程度深く掘ると、そこからは横に掘り進み、所々に広い部屋状の空間を作っていく。夜はそこで寝泊りして地上には出なくなる。地上へ通じる穴から親たちが食事を運んでくれるのがおかしい。やがて、刀折れ矢尽き、一人、二人と脱落していき、主人公も外に出る。社会に出るのを躊躇するモラトリアムの気分を地中のトンネルという、そのまんまの仕掛けで描いてみせたところが力業。
「ワースト・ケース・シナリオ株式会社」の「ぼく」は、大学で専攻したカタストロフィ理論を使って物事が崩壊してゆく筋書きを企業に売り込む仕事をしているが、プライベートでも最悪のシナリオを想定せずにはいられず、二十七歳にして髪が抜け落ち、彼女にふられてしまうことを心配している。ある日、生まれたばかりの赤ちゃんのいる家の抱える危険度についての調査を依頼されるが、最悪のシナリオを聞かされた母親はその日から眠れなくなってしまい、会社を訪ねてくる。同情した「ぼく」が家を訪ねると夫が現れ、余計な節介をしたと殴られてしまう。カタストロフィ理論をネタにしたトラジコメディ。
ほかにクイズ選手権でしか価値を認められない二人の少年が目覚めはじめた性衝動ゆえに友人以上恋人未満の状況に陥る「モータルコンバット」。日系人家族の息子四人が祖母の家の相続権をめぐって千羽の鶴を折り、勝者を決める争いを描く「ツルの舞う家」など、すごく変わっているわけではないが、ちょっと周囲からは浮いている人々を主人公にした十一篇で編まれた短篇集。エキセントリックな登場人物や奇妙な仕事をふざけたものに見せないために、作者が用意したそれらを支える細部の描き方が効いている。