marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『アイルランド・ストーリーズ』 ウィリアム・トレヴァー

アイルランド・ストーリーズ
他国を移動する人々について書かれた作品を集めたのが近刊の『異国の出来事』。同じ訳者による『アイルランド・ストーリーズ』は、アイルランドに根を生やした人々の姿を描いた作品を集めたものだ。路傍の聖母像の話に始まり奇跡の話で締める。昔のLPレコード・アルバムになぞらえ、A面6曲、B面6曲の全12篇からなる短篇集。訳者のこだわりがわかるのはLP世代だけだろうが、いつまで存在するか分からないデジタル機器に比べ、ほぼ半永久的に復元可能なアナログ音源にトレヴァーをなぞらえたくなる、その気持ちはよく分かる。

実は数年前に一度読んでいるのだが、初めてトレヴァーの世界に触れたせいもあって、読後の印象がまとまらず、感想を書かずに済ませてしまった記憶がある。それでいて、その重苦しいようでいて何処か切なさを秘めた独特の味わいだけは深く心に残っていた。それ以後、新作が出るたびに読んできて、迂闊なことにようやくこの頃その作品世界が見えてきたというのが本当のところだ。かめばかむほど味が出てくるというとなんだかスルメみたいだが、読めば読むほど味わいが深くなる。言葉をかえて言えば、初読者にはとっつきにくい作家なのではないか。

その原因のひとつがアイルランドという国についてあまり知らないということがある。『異国の出来事』に出てくるヴェネツィアやパリと比べると、『ユリシーズ』の舞台として知られるダブリンはまだしも、ベルファストやコークといった地名はいかにもなじみがうすい。しかし、アイルランドの人々にとってベルファスト北アイルランドの首都というだけではない重い意味を持つ土地なのだ。以下「訳者あとがきにかえて」を参考に簡略に記す。

16世紀、嫡子の欲しいヘンリー8世が離婚を許さないカトリックに業を煮やし宗教改革を断行した結果、英国最古の植民地であるアイルランドは多数のカトリック信者を残したまま支配者層だけがアイルランド聖公会プロテスタント)に改宗する。これが問題の始まり。その後1916年にダブリンで反英武装蜂起が起き、アイルランド共和国軍IRA)と英国政府が派遣した特別警備隊の間で激しい闘争がくり返される。1921年アイルランドは独立を勝ち取るも、ベルファストを首都とする北アイルランドとダブリンに首都を置くアイルランド自由国のふたつに分裂する。

国民の大多数がカトリック信徒のアイルランド自由国(1949年英連邦脱退、現在のアイルランド共和国に至る)は教会の倫理規範に沿った政策をとり、それに違反する図書や映画の検閲、離婚や妊娠中絶を法律で禁止するなど厳しい施策を国民に強いた。一方北アイルランドでは、プロテスタントが多数派を占め、少数派のカトリック住民を差別し続けた。その結果カトリック系とプロテスタント系の武装組織の対立が三十年も続く北アイルランド紛争を引き起こし、多くの市民が犠牲となった。

「見込み薄」のミセス・キンケイドは結婚詐欺師。カモを探してたどり着いた町で農園を営むブレイクリーを見つけ近づく。独り居に慣れた男は容易に心を開かないが次第にその距離は縮まる。男のプロポーズを拒みながら、小切手を書かせるテクニックが見せ場だ。再会を約束し、女は小切手を手に町を去る。男は銀行からの連絡で金が引き出されたことを知る。約束の場所に女は現れなかったが、ブレイクリーは心のどこかに希望が残っているのを感じる、という話。

ブレイクリーは色とナンバーが酷似していたため誤って車に仕掛けられた爆弾で妻子を亡くした過去を持つ。女の方も親から受けついた下宿屋の収益をフィアンセに騙し取られた苦い過去がある。過去に苦しめられる二人が、少しずつ現在を受け容れようと思うようになる、その背景にあるのがミセス・キンケイドがバスの運転手と話す場面でさらりと触れる<ベルファスト和平合意>だ。長く続いた紛争が、ようやく終わろうとしている。簡単には戻りはしないが、人々は平和への希望を頑固に守ろうとしている。誰もが共通して感じる希望の光、それこそがブレイクリーの根拠のない希望の出所にちがいない。やがてそれはベルファストに暮らすミセス・キンケイドの胸にも届く。

巧みに展開させるストーリーの背後に、当時の社会がもつ感情や色彩を裏打ちすることで、物語の強度を増す。さほど分量のないトレヴァーの短篇が尋常ではない重量感を保持するのは、表面に出ないこうした工夫があってのことだろう。海外でも読まれることを意識しているのか、トレヴァーの筆は、事情に疎い日本人にも理解できるよう意を尽くしている。初読時にはそれが読みとれていなかった。ナボコフではないが「読書とは再読のことだ」とつくづく思う。

「哀悼」が扱うのも爆弾テロ。主人公リアム・パットはアイルランドの青年。工務店では使えない奴と思われ、セメントミキサーの番ばかりさせられ腐っている。ロンドンなら、ちゃんとした仕事があると思い、伝手を頼って渡英する。しかし、待っていたのは派遣仕事で、現場ではいじめにあう。そんな時、酒場で知り合ったアイルランド人から仕事を頼まれる。それが爆弾テロだった。今の境遇に不満を持つ若者をリクルートしてテロリストに仕立てる、という極めて現代的な主題がトレヴァーの手にかかると、まぎれもないトレヴァーの刻印が押された極上の短篇となる。

マイケル・コリンズのような英雄になれると言われ、その気で爆弾を入れたバッグを抱えてバスに乗り込んだリアム・パットは思い出す。父親が新聞を読んで「こんなみじめな英雄ってあるもんか」と言ったことを。一回目の爆弾テロは暴発によって失敗していた。父親が読んでいたのは運び屋の若者の葬式の記事だったのだ。名前も知らない若者が自分と重なり、リアム・パットはバスを降りる。故国を棄ててまで移住した異郷でまた虐げられる若者の切なさが心に痛い。こうしてテロリストは作られていくのか、と腑に落ちた。

不倫相手と最後の旅に出たベアトリスが旅先のバーで出会ったのは楽しそうに席を囲む一組の老夫婦と念入りに化粧した女の三人連れ。乾杯を交わした時ベアトリスには分かった。老女が男を愛していることを。そして男もまたそれを知っていることを。離婚の許されない時代、妻帯者を愛した女はその愛を心の奥に秘すしかなかった。男もそうした。そのまま歳をとって今があるのだ。それを見てベアトリスは自分のいやしさを恥じる。しかし、ドゥニーには、また別の思いがあった。

ドゥニーは八十二、三歳。ベアトリスは三十二歳。ドゥニーがベアトリスの年頃、アイルランド生活様式には「不倫や離婚や明るい茶色の自動車なんてものは含まれていなかった」。自立して間もない国はカトリックであることを精神的支柱に据えた。映画館の案内嬢だったドゥニーは化粧が濃いと神父様に目の敵にされていたのだ。半世紀の時間差をはさんで、ふたりの女が互いの境遇を羨む「パラダイスラウンジ」。南のアイルランド共和国に住む者にも嘆きはあったのだ。

12篇のどれも、甲乙つけがたい選び抜かれた傑作ばかり。紹介しきれなかった作品にもアイルランドの歴史が色濃く影を落としたものが多い。なかには読むのが辛い話もある。逆に、暗澹とした展開に突然穏やかな光が差し込む「秋の日射し」のような話もあって、折れてしまいそうな心をなぐさめてくれる。シングル盤ではなく、アルバムとした所以であろう。一気読みは避けて、一話一話をじっくり味わうことをお勧めする。