ジョー・コグリンは、タンパ、その他で複数の会社を経営する実業家として知られている。慈善家としても知られ、第二次世界大戦下にあるアメリカを支援する募金集めのパーティーを開いたばかり。しかし、その実態はイタリア系のディオンをボスと仰ぐマフィアの顧問役だ。第一線を引いたとはいえ、ジョーの力は今も健在で、組織のなかでは<委員会>の数少ないメンバーの一人であり、委員会の決定にはボスといえどもさからえない。ジョーがボスの座を小さい頃からのワル仲間であるディオンに譲ったのは、ディオンとはちがってアイルランド系のジョーには幹部の席は与えられないというチャーリー・ルチアーノの考えを知ってのことだ。
頭も切れて、度胸もある。ポルトガルであつらえた百十ドルのスーツを着こなし、人好きのする笑顔が魅力的なジョーは、誰からも好かれている。特に、仕事の上で他人を儲けさせることにかけて、ジョーの右に出るものはいない。そんなジョーには敵というものが思いつかなかった。ところが、そんなジョーの命を狙うものが現われた。殺しに来る者の名前も日にちも分かっているという。分からないのは、それを命じた相手とその目的だ。
かつてはジョーも相当荒っぽいことをやってきた。殺した相手も多い。しかし、それは過去のことだ。妻は七年前に亡くしたが、九歳になるトマスという息子もいる。それに、今はヴァネッサという名門の一人娘でタンパ市長夫人と熱愛中だ。危険は避けたい。ジョーは、水疱瘡にかかったトマスを車に乗せて情報を告げてよこしたテレサという殺し屋に会いに行く。テレサも雇い主に命を狙われていた。うまく話をまとめてくれたら、ジョーを襲う殺し屋を教えるというのだ。
デニス・ルヘインという作家は初めてだが抜群に面白い。クライム・ノワールというジャンルには疎く、予備知識はなかったが、グレイの地にヴィンテージ・カーとリボルバーのシルエットが浮かぶ表紙に魅かれて手にとった。パーティーに顔を見せるギャングたちの写真に色めき立つ記者を編集長が抑えにかかる冒頭の挿話で、主要な登場人物の紹介を片づけるだけでなく、本編で重要な役割を果たす、ありえない登場人物まで総ざらいしてみせる手際はなかなかのもの。えっ、ありえない登場人物とは誰かって?そう、絶対に在り得ない存在。なぜかといえば、それは「幽霊」だからだ。
ジョーは、事あるごとにニッカボッカをはいたブロンドの少年を目にする。それは夜のパーティー会場だったり、真昼間の桟橋の上だったり、時間や場所に関係なく現れる。何かを告げに来ているようだが、着ている物や髪形ははっきり見えるのに顔にあたる部分だけがぼやけている。およそ三十年も昔のころの服装をした少年はジョーの父親に似ているようにも思われるが、ジョーには、父親の少年時代の姿は想像できない。どうやら、孤独な少年時代を送ったジョーには両親と過ごした良い思い出はないみたいだ。
実は、『過ぎ去りし世界』は、<コグリン・シリーズ>三部作の第三作にあたるらしい。ジョーの子ども時代や、ギャングとしてのし上がってゆく時代は前二作に書かれている。それらを読めば、ジョーと両親の確執も、「幽霊」の正体も、もっとはっきりするのだろうが、本編を読むのに、前の二作を読む必要はまったくない。これ一冊で確立した世界がある。しかも、小説の書き手としてのデニス・ルヘインの実力は並々ならぬものがある。読み終わってから再読すると巧みな伏線がいたるところに引かれていて、うならされた。作品世界の紹介も必要充分になされている。
何より魅力的なのは主人公であるジョーの人物像だ。人を殺し、麻薬も扱うのだから善悪の範疇で分類すれば悪の側に入る人物であることはまちがいない。ただ、作者もいうように、この世の中にまったくの悪人も完全な聖人もいない。一本のスケールの両端に悪人と聖人がいるとすれば、われわれは、その目盛のどこかに位置している。まあ、ふつうの人生を送るわれわれ一般人は、かなりの程度で真ん中よりのどちらかにいるだろう。ジョーは、まちがいなく悪に近い。それくらいのちがいだ。
主人公だけがよく描けていても、まわりがショボかったら、その小説はとても読み続けられない。この作家は、魅力的なライヴァルや相棒、それに敵役を作り出すのがうまい。敵対関係にある黒人のギャングとディオンがもめたとき、その仲裁に入ったジョーとボスのモントゥーソ・ディックスの話し合いがいい。互いを信頼し合い、認め合いながらも手を組むことができない二人は絶体絶命の状況下にありながら、海のために乾杯し、互いの息子の噂話にふける。
ギャングや殺し屋といっても、全部が全部キレッキレでヤバい奴ばかりではない。働き盛りの男たちは、学校に通う年頃の子どもを持つ親でもある。自分の命を狙っている相手の家に乗り込み、ビールを飲み交わしながら話すのもやはり子どもたちのことだ。タクシー会社で働きながらフリーで殺し屋もやるビリー・コヴィッチとの対話も読ませる。凄腕の殺し屋というのは、そのターゲットさえも心を許してしまいそうな、ごくごくふつうのどこにでもいる善人にしか見えない。裏稼業さえ別にしたら、友だちにしたいような人間なのだ。互いの妻が死んだ時は弔いの席に顔を出す関係でもある。しかし、何かがあれば殺しあうしかない。緊張感をはらんで対峙しあう二人の間に過ぎ去っていく時間の愛おしさ。
いくら愛し合っても展望の持てない男女の関係ほど苦しくも切ないものはない。ヴァネッサもジョーもこの関係がいつまでも続けばいいと思っている。しかし、そんな時間が長く続くはずがないことは二人もよく分かっている。だからこそ、セント・ピーターズバーグにあるサンダウナー・モーター・ロッジ107号室での逢瀬は時を惜しんで愛し合うことになる。相手がギャングと知りつつも、生まれてから今までで最も幸せな時間を過ごせているという実感は嘘ではないからだ。ヴァネッサのこの愛も哀しい。
テンポのいい会話、凄まじい暴力シーン、と息もつかせぬ展開でぐいぐいと押しまくってくる前半に比べ、後半は少しずつ不安の影が忍び寄る。思い出したのは、映画『ゴッドファーザー』だ。パート1のデ・ニーロ演じるコルレオーネがのし上がってゆくときの仲間や同郷の者に寄せる情愛が暴力をさえ美しく見せていた。しかし、パート2、パート3と展開するにつれ、ただただ組織を守るために自分の信条をすら犠牲にしていかざるをえないマフィアの実態が空しく思えてきたものだ。『過ぎ去りし世界』は、あの映画に似ている。そういえば、イーストウッド監督の『ミスティック・リバー』は、デニス・ルヘイン原作だった。シリーズを構成する前二作『運命の日』、『夜に生きる』を探し出して読みたくなること必定の一篇である。