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冒頭の老婆の突然の出産に象徴される現代パリでの出来事が異様すぎ、これはSFなのか、それとも何かの寓話なのだろうか、と混乱をきたしそうなので、小説に限らず映画でも絶対はじめから順に見ていくのだ、という強いこだわりをお持ちでない読者は第二章「セニョールの足元」から読み始めることをお勧めする。そして、めでたく最終章まで読み終えたあと、第一章に戻ればいい。この驚嘆すべき物語は時間と空間を飛びこえた無数の挿話群がねじれ縺れあったあげく織り成す一つの円環構造を描いており、第一章と最終章は、三連の真珠のネックレスを首の後ろでとめるためについている金具のようなもので、それがなければ上手くまとまらないから存在しているだけで、物語で重要なのは、光り輝く真珠のほうなのである。
セニョールとは、慎重王ともあだ名されるスペイン王家のフェリペ二世のことで、カトリックに深く帰依し、異端思想を持つ各派をフランドルその他で撃破した後、今のマドリード郊外に霊廟と修道院を兼ねたエル・エスコリアル離宮を建てたことで知られる。このフェリペ二世の治世をもって旧世界におけるスペイン絶対王政は衰退してゆくが、その一方で大西洋を渡ったヌエバ・エスパニア(メキシコ)という新世界を統治することになる。
この小説は、代々続く近親婚の結果として病弱な体を持ち、また女と見れば片端から手を出した父美男王から梅毒をうつされ、その他通風やら横根やらありとあらゆる病魔に悩まされるセニョールが、神への祈りの中で自分の命と世界を終わらせるために、三十に及ぶ先祖の遺体を国中から移送させ、礼拝堂や地下墓所、修道院を併設する巨大な王宮を計画・造営してゆく間に起きるできごとを描く。絶対王政の専制君主として、権力をふるうセニョールだが、彼は書面を読み、命じるだけ。それを実行しているのはグスマンという名の勢子頭である。このグスマン、後半では病を得たセニョールに代わり、新世界にスペインの威光を示す役割を果たすところからエルナン・コルテスに擬せられている。
こう書いてくると、なんだか大河歴史小説ででもあるかのようだが、とんでもない。セニョールの母は、女狂いの夫を墓地に埋めることを許さず黒塗りの馬車に棺桶を載せ、葬送の行列を仕立てて国中を回ったという、あの狂女ファナ。怪我の治療を許さず壊死した四肢を切断され、輿に乗って移動した。最期は、群衆に踏まれて襤褸屑のようになった姿で、目だけを残して壁のニッチに塗りこまれ、代々の王の墓所を見張るという壮絶な人生を生きる。
また、イギリスから嫁いだセニョールの后イサベルは、中庭で倒れたところ金属製のフープが重くて起き上がれず、王以外の誰も手を触れることが許されないという理由から、異端掃討の旅に明け暮れる王が帰国するまで三十三日間の間、そのままに捨て置かれる。その際経血の臭いで集まってきたネズミによって処女膜を食い破られるという憂き目に会う。その後イサベルは、マンドラゴラを育てたり、歴代王家の墓を暴いて遺体の欠片を収集しミイラのような人体を作り、悪魔の力を借りてこれを動かそうとしたり、次々と若い男を部屋に引き入れたりと、したい放題の放埓を尽くす。
ゴシック・ロマンスめいた奔放な奇想は、抹香臭いセニョールの聖遺物蒐集と対をなしている。セニョールがイサベルを抱かないのは、梅毒に冒された自分の穢れた肉体ゆえだが、近親婚による病んだ血統を残したくないという思いもある。若い頃、城から逃れたフェリペは森に住む仲間と将来の夢を語り合ったことがある。船に乗って新世界を目指したいというペドロ。世界から病をなくしたいシモン。神などない世界を目指すルドビーコ。自由に愛し合うことが幸福な世界を創るというセレスティーナ。彼らはフェリペに夢を問うが、彼は答えない。それどころか異端思想を奉じる大集団を組織して王宮に闖入させ、門を閉じて大虐殺させてしまう。
時は過ぎる。ルドビーコは、奇妙な縁によって王家の血を引く三人の子を養い続ける。肩甲骨の下に肉色の十字の傷跡を持ち、足の指が六本ある三人は、イサベラやセレスティーナ、狂女ファナとの出会いから王宮に出入りするようになる。
スペインを代表する文学作品といえば、セルバンテスの『ドン・キホーテ』だが、それに『ドン・ジュアン』、『ラ・セレスティーナ』という二つの戯曲を換骨奪胎して、三人の若者の物語に織り込んでいる。セルバンテスらしき人物は年代記作者という名で、この小説の執筆者の一人に名を連ねてもいる。もう一人はフリアンという修道士であり、画家である。フリアンは、イサベラの聴聞僧としてお傍に仕え、王宮の事情に通じている。オルヴィエートから運び込まれた絵画についてセニョールと語らう仲でもある。
第一部「旧世界」がセニョールやイサベルたちの話だとすれば、第二部「新世界」は、三人の若者の一人「巡礼者」が語る新世界メキシコにおける冒険譚。金髪の白人であることからアステカの伝説上の神ケツァルコアトルの再来と思われ、種族の長となり、数々の冒険をくり返しながら、神話的世界を生きるこの部分は、第一部とはまったく趣きを変えた異世界冒険譚となっている。この神話の世界が、スペインに伝えられ、グスマン(コルテス)らコンキスタドールを呼び寄せるきっかけとなる。
スペインは経典の民であるユダヤ教、イスラム教、キリスト教徒が共に暮らす国であった。民族や宗教が異なっていても、あるいは異なっているからこそ、得意の分野を発達させ、利益を共有してきたのである。それが、ユダヤ教信者を排斥し、十字軍によってイスラム教と闘い、果ては同じキリスト教であっても、カタリ派やアダム教信者を異端として迫害、糾弾していたのが、フェリペの時代である。カトリックによる専制政治ではなく、他の宗教、宗派に寛容なゆるやかな国家を選ぶことはできないのか、という問いがルドビーコの視点として旧友であるフェリペに問いかけられる。
思弁的であり、哲学的でもある対話や晦渋なモノローグが多用され、紙面がびっしり活字で埋め尽くされた二段組1079ページという重量級の超大作は、正直なところ読むのに骨が折れた。飛躍も多いし、カバラ数秘術を用いた数合わせ的なところもあって、ついてゆくのがやっとである。ただ、小説的には魅力的な開かれたテクストを目指していて、人物造形も巧みである。新世界を夢みる若者集団に参入することができない、旧世界の申し子たるフェリペの鬱屈し沈潜し病み衰えてゆく自我の終焉も、おぞましすぎるほど書き込まれている。
これほど面白い小説が本邦初訳というのだから、まだまだ世界には読まれてしかるべき本が訳される日を待っているにちがいない。苦心の訳業にケチをつける気は毛頭ないが、誤字脱字と思われる箇所が散見される。訂正された版が出るように是非多くの人に読んでもらいたい。