marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ブラック・ダリア』 ジェイムズ・エルロイ

ブラック・ダリア (文春文庫)
第二次世界大戦が終わって間もないころ、元ボクサーのバッキー・ブライチャートは、同じく元ボクサーでロス市警セントラル署巡査部長リー・ブランチャードのパートナーとして、ミラード警部補の下で捜査にあたっていた。バッキーと、リーは警察内部のボクシング試合で対戦し、互いに相手の力を認め合い、親友となった。リーの恋人ケイ・レイクは以前からバッキーのファンで、三人は意気投合し、友情を深めていった。

1947年1月15日、その事件は起こる。39丁目とノートンの角にある公園で女性の死体が見つかった。死体は胴体を二つに切断され、口は耳から耳まで切り裂かれていた。後の調べで分かったことだが、女の名はエリザベス・ショート。女優に憧れてハリウッドに出てきたが、夢破れて娼婦まがいの仕事で食いつないでいた女の成れの果てだ。女が好んで黒い服を着ていたことからアラン・ラッド主演の映画『ブルー・ダリア』に因んで「ブラック・ダリア」殺人事件と呼ばれることになる、現実にあった迷宮入りの事件である。

ちょうどその頃、リーが強盗殺人事件の犯人の一人として逮捕したボビーが、出所することになった。ボビーはケイの昔の男で、麻薬で縛りつけたケイをいたぶっていた。リーは、彼女を守るためボビーを罠にかけ強盗犯に仕立て上げたのだ。報復を恐れたリーは過敏になり、捜査途中で単独行動に走り、捜査から外され、ついには行方をくらましてしまう。

バッキーは、ミラード警部補の指揮の下、操作を続行するが、次々と出てくる重要参考人にもかかわらず捜査は難航する。失踪したリーの代わりに組まされたヴォーゲルの暴力的な尋問に我慢ができず、警報装置を作動させたことで、バッキーは特捜課を外されてしまう。そんな時、金持ちの娘マデリンと出会い、関係を持つ。事件を通じて<ブラック・ダリア>に魅せられたバッキーは、ケイを愛していながら、エリザベス・ショートに似たマデリンを抱いて欲望を満たすのだった。

実際にあった事件を小説の一要素として採用しながら、事件を解決してみせるというのは、ポオの『マリー・ロジェの秘密』を嚆矢とする、ミステリにはよくある手法。エルロイは、耳から耳まで切り裂かれた口やその他の常軌を逸した殺害方法を一つの仮説の下に解決して見せる。もとより迷宮入りの事件であるから、犯人は分かっても公には明らかにできない理由が必要になる。ユゴーの『笑う男』という文学作品まで引用した謎解きは、少々陰惨に過ぎて好みではないが、どんでん返しに次ぐどんでん返しは、最後まで気をゆるせない。

大金持ちの豪邸に招かれた探偵が、エキセントリックな姉妹に翻弄されたり、ポルノ映画が強請りのネタに使われたり、とチャンドラーの『大いなる眠り』を持ち出すまでもなく、ハードボイルド探偵小説のモチーフをふんだんに取り入れた書きぶりで、スタイルも今のエルロイ調とはちがった、どちらかといえば落ち着いたトーンで、LAには似つかわしくない湿り気を感じさせる。後に「暗黒のLA四部作」と呼ばれることになるシリーズの第一作にあたる作品だが、はじめからシリーズ化する気があったのだろうか。そう感じさせるほど、この一作は完結している。

とはいうものの、最新作『背信の都』で、エルロイを知った評者のような不案内な読者にとっては、どこか狐につままれたような気にさせられる作品なのだ。バッキーがヒデオ・アシダをたれ込んだことや、徴兵逃れのために警察学校に入ったことは、これを読む前から知っていたのだが、実はこっちの方が先に書かれていたわけで、ちょっとした既視感にとらわれてしまう。作家というのは、そんなにまで先を見通して構想を練っているのものなのか、と信じられない思いに襲われる。

「シェルシェ・ラ・ファム(女を探せ)」というセリフは、リーがバッキーに残したアドバイスだが、事件解決のためのキイ・ワードでもある。確かに事件の最奥部には女が隠れている。しかし、誰よりも蠱惑的なのはケイ・レイクだろう。このファム・ファタルは二人の男の間にあってどちらも夢中にさせながら、最後には均衡を崩し、男を破滅させずにはおかない。それでも、男はそういう女に惹かれてしまう。四十年近く時間を置いて書かれたはずの物語であるのに、ケイはどちらの作品においても別の男を頂点とするトライアングルを描いてみせる。

ブラック・ダリア事件を描いているために、猟奇殺人事件を主眼とするクライム・ノベルのように評されがちな作品だが、今では古典的に見えるほど、一貫してバッキー・ブライチャートの一人称視点で書かれている。そのため、読者は主人公の若い巡査がとんとん拍子で出世して、私服刑事になり、やがて組織の中で生きるために、自分を裏切るか、出世の道を放棄して自分に忠実に生きるか、という実社会で生きる者の誰にも覚えがある問いを前にして、悩み、悶え、自棄を起こし、女との情事に逃げる、という切実な姿を目にし、ああ、これは自分のことを書いているのだな、と気づくことになる。

たしかに、事件の概要は陰惨を極め、ハリウッドの成功者の家族は病んでいて、暴力は凄まじく、組織はすべてを隠ぺいする。まさに「暗黒のLA」だが、よくよく考えてみれば現実の日本に生きる我々の人生もどこが違うというのか。主人公バッキーはもちろん、その相棒のリー、恋人ケイの人生には、すべてをその人のせいにしてしまうにはあまりに残酷な不幸が影を落としていて、一つまちがえたら誰の人生においても、こんなことは起きるかもしれない、と思わせるものがある。すべてが終わってケイからバッキーに届く手紙に、再生の希望が託されていて、暗黒の中に一筋の光が見えたように感じられた。