ラメント。嘆き歌。結局これを聴きたいがために上下二巻の長丁場をひたすら耐えるのかもしれない。悪の巨魁に立ち向かい、力及ばず死んでいく者。死なないまでもボロボロになって都市を離れてゆく者。ともに戦った仲間の無念を思い、ひとり立ち尽くす未だ滅びざる者。ハードボイルドのなかでもレイモンド・チャンドラーの衣鉢を継ぐ作家たちに多くみられるセンチメント過多な傾向だが、これがなくては、ひたすら過激なヴァイオレンスや目を覆いたくなる猟奇的殺人の描写でざらざらにされたこちらの感情が浄化されない。悲劇にはカタルシスが必要だ。
暗黒のLA四部作、第三作。プロローグ。前作『ビッグ・ノーウェア』の主人公中ただ一人の生き残り好漢バズ・ミークスの死で幕を開ける。最初からショッキングなシーンが飛び出すが、本当は前作の最後に置かれて当然の一幕。これを冒頭に持ってくることで前作との関係が明らかになる趣向。往年の連続活劇を見ているようだ。しかも、バズがミッキー・コーエンから略奪した大金とヘロインがダドリー・スミスの手に渡ることが、本作の謎解きに迫る大事な伏線の役目を果たしている。
1951年のクリスマス。警官を襲撃して収監された囚人たちに酒に酔った警官が暴行を加えるという事件が起きた。堅物のエド・エクスリーは署内での飲酒に加わらなかったため、事件の供述書を提出する。その結果首謀者のステンズランドは起訴され刑に服することに。相棒のバド・ホワイトはダドリー・スミスの仲介で起訴を免れ彼の部下になる。バドは仲間を売ったエドへの復讐を誓う。事件に連座したジャック・ヴィンセンズも証言をすることで起訴を猶予され、麻薬課から風紀課へ転属する。ゴシップ誌の記者であるシド・ハジェンズから情報を回してもらい、ヤク中のミュージシャンを逮捕していた彼には痛手だった。
二年後、風紀課に移ったジャックはポルノ雑誌の摘発に励んでいた。手柄を立てれば麻薬課に戻れるからだ。そんな時、ナイト・アウルという店で六人の男女が殺される事件が起きる。刑事部全員が招集され、ジャックが容疑者である黒人の若者三人逮捕する。尋問を担当するのは真っ先に現場に駆けつけたエドだった。三人は事件当夜白人の少女を輪姦し、その後売り飛ばしたと告白した。尋問に闖入し、強引な手段で場所を聞き出したバドは見張りの男を殺し少女を救出する。バドには、父が母を殺す現場を目撃した過去があり、女に暴力をふるう男が許せない。
作家には母親を殺された過去があり、犯人は見つかっていない。その所為もあるのだろう、エルロイ作品には過去のトラウマを背負い続ける男たちがよく登場する。バドだけではない。戦争の英雄であるエドは、戦場でただ一人逃げて生き残った事実を隠すため、自刃した日本兵の死体を集め火炎放射器で焼くことで報復を果たしたように見せかけた過去がある。ジャックは、犯人逮捕時に誤って民間人の夫婦を射殺したことを悔いて、遺児に金を送り続けている。
三人が三人ともそれぞれの過去のトラウマに苦しみながら、犯人を追い続けるうちに、ジャックが追っているポルノ雑誌の事件と、<ナイト・アウルの虐殺>事件とが絡んでいることが分かってくる。しかも、何者かによって殺されたシド・ハジェンズの切断された四肢の配置はエドの父親が過去に解決したアサートン事件のそれに酷似したものだった。事件のファイルは厳重に保管され誰も目にすることはできない。だとすれば、犯人は?
スカンク草井やハムエッグ、アセチレン・ランプといった悪役が、多くの作品に顔を出す手塚治虫のマンガのように、エルロイの暗黒のLA四部作には、ギャングのボスであるミッキー・コーエンや麻薬中毒患者の治療もする形成外科医テリー・ラックスといったキャラクターが毎回顔を出す。コメディ・リリーフ的な存在であるミッキーとちがって、腕利きの整形外科医テリーの名前が出れば、重要な事件関係者が顔を変えていることがバレバレである。この手の都合のいいデウス・エクス・マキナの使用は、せっかくの作品を陳腐なものにしかけないのに、エルロイは頓着しない。
上巻と下巻の前半は、いつものように相次いでいくつもの事件が起き、その捜査線上に大量の人物が登場する。その間に三人の刑事の恋愛事情が息抜きのように挿入される。作品ごとに名前が変わるだけで、図式的に過ぎると思えるほど人物の相関関係は固定されている。一人の女をめぐって競いあう二人の男。頭は切れるが暴力行為は苦手な正義派と腕っぷしが強く悪人には暴力も辞さない武闘派の対決という紋切型の設定もまたまた使い回しだ。猟奇的殺人を行う変質者という犯人像も前作とかぶる。
新味といえるのは、元警視で今は建設会社社長というLAの大立者を父に持つエド・エクスリーの、父や兄に対するコンプレックスだろう。アサートン事件という難事件を解決しながらさっさと会社経営に転身、ディズニーを彷彿させる映画製作者ディターリングとテーマ・パーク経営に乗り出し、次期知事候補と目される父は、早くに死んだ兄に比べ、エドを顧みない。エドは、父や兄より早く出世することで父を見返したい。その思いが、仲間に嫌われてでも点数を稼ぐ行為につながる。やがてそれは、フロイディズムでいう「父殺し」にエドを導くことになる。
互いに相容れないエドとバドが、事件の陰に隠されたダドリー・スミスの悪事を暴くために手を組むうちに、相手の中にあって自分が見てなかった能力や美点を発見し、自分になかったものを獲得していく過程がこの小説の醍醐味である。それはまるで、互いに一人の人物としては完全ではなく、謂わば半身であった二人の人物が相手を受け容れることで、完全な全身を手に入れるような感じといったら分かってもらえるだろうか。
父と息子という関係がはらむ愛憎劇を軸に複雑に絡まりあった事件の謎が解かれていく。序盤の一見無造作に見えるほど、畳みかける調子に乗せられて、何気ない家族紹介や昔話を読み飛ばして目前の事件の捜査内容にばかり目をやっていると、あとで後悔することになる。因縁めいた裏話は、実は初めからすでに仕込まれている。犯人は後から唐突に登場するのではなく、最初からしっかり登場している人物でないといけない、というのは何も本格物のミステリに限ったことではないのだ。大味なように見えて、勘所はしっかり押さえてあるのがエルロイだ。
以前にも増して凄みを見せてきたダドリー・スミスの悪徳刑事ぶりだが、フィクションのお約束通り、悪は正義に敗れるのか、それとも現実の社会がそうであるように、したたかな悪の前には正義など何の力も持たないのか。いよいよ完結篇である第四作『ホワイト・ジャズ』が楽しみになってきた。