marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ホワイト・ジャズ』 ジェイムズ・エルロイ

ホワイト・ジャズ (文春文庫)
「暗黒のLA四部作」第四作。シリーズ完結作は意外に手堅くまとめられていた。デイヴィッド・クラインというLA市警警部補の一人称限定視点で書かれていることもあって、これまでの作品のように、個性的な主人公が何人も登場し、複数の視点から事件をながめ、互いをライヴァル視し、一人の女を競い合うという面倒な関係がないからだろう。文句をつけているのではない。「おれ」という一人の主人公が語る古典的なスタイルは、個人的には好ましいと感じている。

一方、文体はといえば、どこかの批評家がいみじくも評した、いわゆる「電文体」。短い単語で一センテンスを構成してゆく手法で、頭の中の思考が、即印字されているような感覚に襲われる。一種の「意識の流れ」的手法だが、「流れ」というよりは「意識の途切れ途切れ」。スラッシュやハイフン、等号といった記号が多用され、複数の人物が会話するときなど、人物名。「…」というまるで台本。余韻などあらばこそ、あれよあれよという間に読まされてしまう。疾走感といえば格好いいが、ついてゆくのに息が切れる。これと比べれば、一時期話題となったヘミングウェイの文体など、どうということもない。むしろ抒情的に感じるほどだ。

回想視点で書かれている。ああ、この語り手は死なずにすんだのだな、とひとまず安心。なにしろ、主人公といっていい人物が次々と殺されてしまうのがこのシリーズなのだ。事件が起きたのは1958年の秋。警視の息子の教育係を命じられ、警部補ながら風紀班班長を任されたクラインは、ステモンズ・ジュニアを引き連れ、仕事に明け暮れていた。そんな時、市警が情報のタレこみと引き換えに目こぼししていた麻薬密売人の家が侵入盗に入られる。被害者が訳ありのため、麻薬課の警部から電話があり、内部事情に通じている=悪徳警官、クラインが現場に出向く。

盗難にあったのは銀の器だけだが、犬が両眼をつぶされたり、レコード盤が割られたり、果ては娘の服が切り裂かれ、精液がかけられたりするなど、ただの泥棒とは考えられず、何かの復讐臭い。今では刑事部長となったエド・エクスリーは捜査をクラインに任せる。エクスリーには何か考えがあるらしく、毛皮強盗の件を担当したいというクラインに、その件はダドリー・スミスに任せてある、と譲らない。エクスリーは、ダドリーを抑え、刑事部長の席を奪っただけでは飽き足らず、彼の尻尾をつかもうとしているらしい。

おりしも、地方検事のボブ・ギャロデットと連邦検事ウェルズ・ヌーナンが司法長官の椅子を巡る権力争いの真っ最中。その余波で市警と連邦も対立を深めていた。事件解決が長引けば、市警の無能ぶりを言い立て、連邦が出張ってくる。クラインは過去のよく似た事件の資料を漁り、手がかりを得ようとするが空振りが続く。そんな時、ヒューズから女優の契約違反の尻尾をつかむため、監視を命じられる。いいアルバイトと思って引き受けた、その相手がグレンダだった。

女と浮いた噂がないので、選ばれたクラインがグレンダに一目ぼれ。過去に犯した殺人の証拠を破棄したり、ヒューズの家から高価な食料を盗んで老人ホームに配るのを見逃したり、とすっかり入れあげてしまう。グレンダの殺人が連邦の知るところとなり、自分との情事もヒューズに知れる。愛人の身を守りながら、ついには同じ手口で殺人事件まで起こした犯人を追い続けるクライン。そこに相棒のジュニアの奇行がからみ、事件は異様な方向に発展していく。

娼婦のまねをする妹、その妹を犯す兄、それをひそかに覗く男、と相変わらずの背徳的な世界だが、妹に執着する兄という近親相姦的関係は、クラインにも重なる。父の暴力から妹メグを守る兄、父を殺しかねない兄をなだめる妹。クラインのメグに対する感情は単なる兄のものではない。事件の捜査のため何度も現場に出向くクラインだが、監視と窃視の差は微妙で、どこからどこまでが監視で、どこからは覗きといえるのか。犯人とそれを追う者とが二重写しとなる。

しかし、事件の陰にあったのは、過去にさかのぼる、忌まわしくもねじれた人間関係だった。過去の因縁によってもつれにもつれた関係が、電話照会による人名検索でほどかれてゆくのは、少し簡単すぎるのではないかと思うものの、あまりそういうところを突くのは野暮というもの。ここはクラインの刑事としての運の強さと考えておきたい。複雑なプロットに巧みな伏線。再読すれば、犯人像を示す手がかりが小出しにされて、かなり初めの方から何度も目にしていたことに気づかされる。

過去のトラウマに苦悩する男というのはお定まりのパターン。ただ、妹に付きまとう男を始末した過去を引きずって殺人を繰り返すクラインに魅力を感じられなかった。自分が愛する者だけを守れればよし、とする行動規範になじめない。やたらと計算高いところが鼻につく。権力を持ち、自分の思うような社会をつくりあげるためには手段を選ばない冷徹なエクスリーや、悪党ながら力のある若者をスカウトするのが趣味という親分肌のダドリー・スミスの方に惹かれるものがある。シリーズを通して生き抜いてきた男たちの持つ力なのかもしれない。

迂闊なことに、今頃になってペーパーバック版をのぞいて、シリーズ名が<L.A.Quartet>となっているのにはじめて気がついた。ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』(The Alexandria Quartet)と同じではないか。<Quartet>には四重奏(唱)のほかに、四人組、四つ揃いなどの意味があるので、必ずしも「四重奏」と訳す必要はないだろうが、全編にジャズやカントリー・ミュージックが流れるエルロイ作品なのだから、ここは<LA 四重奏>とシャレてみる手もあったのではないか。蛇足ながら、四部作の訳者が一作ごとにちがうことにも違和感がある。どういう意図があってのことなのだろうか。