marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『風狂 虎の巻』 由良君美

風狂 虎の巻
ちくま文庫から『みみずく偏書記』、『みみずく古本市』、平凡社ライブラリーから『椿説泰西浪漫派文学談義』と、ここ何年かの間に由良君美の復刊が相次いでいるのには何かわけでもあるのだろうか。ここへ来て、青土社が『風狂 虎の巻』を新装版で出すに至っては、ますます面妖である。紹介レビューの一つを読むと一言。「四方田犬彦の先生の本」とあった。まさかとは思うが、映画評論家として知られる四方田犬彦が書いた『先生とわたし』で由良君美を知る人が増えたというのか。それでは、ちょっと由良が浮かばれない。

というのも、あれは四方田の大学時代の師である由良君美の評伝の一面を持つ本で、師の博学多才ぶりを称えながら、その一方で師の弟子に対する嫉妬、飲酒癖、学内での孤立といった否定的側面も描いている。読みようによっては、弟子が師の自分への嫉妬を赦し和解した話のようにも読める。しかし、由良はすでに亡くなっており、自分について書かれたことに反論が許されない。和解といっても、墓石にコップ酒を手向けるという一方的なものだ。

当の由良は、かつて<評伝>というジャンルについてこう書いている。

資料をふんだんに使って人物を浮き彫りにする<伝記>の分野は、イギリス人のお家芸で、イギリスぐらい堂にいった伝記に富む国は珍しい。そのイギリスにも、日本のような意味での<評伝>というジャンルはない。<伝記>の事実尊重主義と<批評>の分析判断主義とが、別枠になっているためであろう。これらを混淆し、何となく事実に沿った伝記のような体裁をとりながら、実は筆者の好悪をコッソリ織り込むやり方が<評伝>。(中略)しかし、本格的伝記を書くだけの事実追求の執念もなく、批評といえるだけの分析能力も価値判断力もなく、手頃な規模と手間でお茶を濁すのに、<評伝>というジャンルは実によい隠れ蓑を提供してきた。(『みみずく偏書記』)

<中略>部分を間に挿む二つの文をよく読んでみてほしい。まさか自分の死後、かつての弟子によって自分を誹謗する<評伝>まがいの本が書かれると予想していたわけでもないだろうに、師は安易に<評伝>のようなジャンルに頼るべきでないことを、後から来る者に厳しく教えているではないか。たしかに、四方田の本は筆者の好悪を「コッソリ」織り込んではいない。自分の類推や想像、噂話、といったものに頼って、筆者の好悪をハッキリ書いている。

上手いのは、<評伝>とはっきり銘打つのでなく、ジョージ・スタイナーや山折哲雄の論考を引きながら、自分と由良の子弟関係を考察するという手法を用いていることだ。先ほどの引用文中省略したところには次の文章が入っていた。

二つの分野を峻別するのも、混淆するのも、それぞれに得失はある。秀れた見識を持つ筆者の手になる<評伝>は、筆者の個性の冴えが、対象の個性を描き上げ、いきいきした読みものになる。個性による個性の証明であり、出会いであり、読者までその出会いに感動し満足させられる。こういう秀れたものの場合は良い。

実際のところ、評者も『先生とわたし』を読んで、感動した一人である。弟子が優れた師と出会い、傾倒し、師も弟子を可愛がるところなど、感動的な師弟関係で、むしろこちらがそれに嫉妬したくらいだ。しかし、よくよく考えてみれば、疎遠になってからのことについては、すべては筆者の側の用意したエピソードとそれをもとに組み立てた、「師の脆さ」、「嫉妬」という主題に基づく叙述になっている。

由良の側の話が聞ければ問題はないのだが、流石に、墓石にマイクは向けられない。そこで、由良が残した『≪みみずく雑纂≫シリーズ』の出番となる。「みみずく」とは、由良の「木兎斎」という斎号からきている。専門はコールリッジら英国浪漫派文学だが、領域を横断し、あらゆる分野で博識をもって知られる氏のことだ。書物について、美術について、怪奇・幻想文学について、いろんな雑誌その他に求められて書いた蘊蓄満載の文章はまさに「知の宝庫」。

風狂 虎の巻』は、その第二弾として発表されたもの。章立ては五つ。「日本的幻想美の水脈」は、「梁塵秘抄」についての一文を除き、曽我蕭白を中心に「日本のマニエリスム」について述べる美術論。若冲ブームで美術館がにぎわっているが、由良君美の一押しは、表紙にも使われている蕭白。「絵を求むるなら我の所へ、図面を求むるなら応挙の所へ」という蕭白の、円山四条派という正統派に対する対抗心が、由良の気質に響いたのであろう。

「幻想の核」という題でまとめたのは、メルヘンやおとぎ話に始まって、空を飛ぶ「翼人」について、日本のオカルティズム?について、果ては夢野久作の『ドグラ・マグラ』に出てくる「九相図」、上田秋成雨月物語』の「青頭巾」、ダニエル・シュミットの映画『ラ・パロマ』を貫くネクロファギア(屍肉嗜食)のテーマについて、と幻想文学の核となるものについて幅広く論じている。

風狂の文学」に至って、やっと「風狂」が登場する。夢野久作坂口安吾大泉黒石、と「風狂」を名乗るに相応しい作家を並べた最後に、由良が師と仰ぐ平井呈一が満を持して登場する。佐藤春夫門下の平井呈一は、すぐれた文章家、翻訳家として知られるが、荷風の代筆者をしていたとき筆禍を起こし、逼塞していた時代がある。

その後、その力を知る人たちにより復活の場を与えられ、評者偏愛の『ディレムマその他アーネスト・ダウスン短篇全集』や、擬古文を駆使したホーレス・ウォルポール作『おとらんと城綺譚』の名訳を世に送ることになる。平井について語る二つの文章が、由良君美が師と弟子というものをどうとらえていたかを知る手がかりになるかも知れない。

「現代俳句における風狂の思想」は、中村草田男論。「贋作の風景」は、本物と偽物についての味わい深いエッセイ。最後の「書誌学も極まるところ一つの犯罪」は、ある書誌学者による悪質極まりない贋作創りの実話。この手口ばかりは、そうそう誰にでも使えるものではない。驚かされた。

あらゆるジャンルに分け入り自在に語る、その内容の深さ、ヴォリュームは生なかではない。しかも、他人の書いたものに頼ることなく、自分の見識を頼りに書いているから、文章に勢いがあり、熱がこもっている。好きなことについて語るのが楽しくてしかたがない、という悦びがどの文章からも伝わってくる。独学の作家や体制に抗う画家を称揚してやまない、こういう人が、はたして大学格差に拘泥したり、弟子の端くれに嫉妬したりするものだろうか。

死人に口はない。ただ、書いた文章はいつまでも残って多くのことを語る。以て瞑すべし。