休日に車に乗って何となく走っていると、自分の手が勝手に職場に通じる道の方にハンドルを切っているのに気づいたことはないだろうか。頭は休日モードに入っているのに手足は週日の習慣行動をとっている不思議さ。車の運転という高度な運動に、知的な活動を必要としないのは、感覚器官と四肢が何らかのつながりを作っているからで、もしいちいち考えながら動かなくてはならないとしたら人は二本足で歩くことすら満足にはできないだろう。
「僕」は、歩行中に突然空から落ちてきた何かによって頭部に傷害を受けて記憶をなくす。また、体の右半分の動きをコントロールする脳の部分に傷を負った。理学療法士はなくなった道筋の代わりに未使用のルートを通って手足を動かすリルートという方法を採用した。しかし、未開拓の荒れ地に道をつけていくためには、肩から始まり肘、手首、指と一つ一つの部位に意識を集中しなければならない。ひとくちでいえば「僕」と「僕」の行為の間にはギャップができてしまったのだ。
退院後、あるパーティに行った「僕」は洗面所の漆喰壁の割れ目に既視感を覚えた。それはまさにエピファニーだった。そのひび割れがある建物を隈なく思い出させたのだ。階段の手摺りや床板、自分の部屋の間取りから窓から入ってくる階下の老婆が焼くレバーの匂いに至るまでのすべてを。「僕」は、その建物にいたころの自分の動きの滑らかさを記憶していた。意識しないと動けなくなっていた「僕」にとって、そのリアルさは感動的だった。
示談が成立し、事故については今後一切触れない条件で850万ポンドの大金が支払われることになった。「僕」は、記憶にある建物を再現しようと決意する。窓から見える中庭や隣の家の屋根の上にいる猫まで。もちろん、レバーを焼く老婆や、まちがえた時にはゆっくり弾き直すピアニスト、中庭でバイクを修理する男を演じるパフォーマーを雇い、自分が見聞きし、味わった感覚すべてを再現するプロジェクトの開始である。
「神」による天地創造のパロディ。大金持ちには不可能などない。実務に長けた協力者ナズを得た「僕」は、記憶の再現にとりかかる。レバーを焼く匂いにニトログリセリン臭がするなど、細かな差異はあったが、プロジェクトは一応成功する。ゾクゾクするような快感に味を占めた「僕」は、雇った人々に執拗に何度も同じことを繰り返させる。屋根に放った猫が落ちて死んでも代わりの猫を探させ、何度も屋根に上げる。この辺りから違和感を覚え始めた。
プロジェクトは、それにとどまらず、パンクの修理で訪れたタイヤショップ、近くで起きた殺人事件現場の再現と続いてゆく。タイヤショップでの出来事は、洗浄液をかぶるという軽い程度のアクションだが、殺人事件の再現では撃たれた黒人の代わりを自分でつとめ、自転車から放り出されるシーンまで演じる。何度も繰り返すうち、トランス状態に陥った「僕」を心配して、ナズが医者を呼ぶ。医師の診断は外傷ショック性障害。激しいトラウマから来る痛みを抑えるため、分泌されるアヘン様物質が快感をもたらしているらしい。問題は新たな分泌への強迫的欲求が高まることだ。そんな「僕」が次に考えたのは銀行強盗の再演だった。
薬物に因らない脳内麻薬による中毒。脳の損傷による世界と自分との間に直接触れ合うことを遮る幕の存在を感じる「僕」にとって、プロジェクトが与えてくれる強烈な多幸感は他によって代え難い。PTSDによってもたらされた苦痛を癒すために分泌される脳内麻薬を求めて、より激しい痛みをもたらす刺激を求めるようになる人間の姿を具体的かつ細密に描いている。
やがて、それはナズにも伝染し、二人のすることには歯止めがかからなくなる。壊れた神によるディストピアの創造である。ただ、読んでいて面白かったのは四分の三まで。銀行強盗の再演のところで先が読めてしまう。謎の登場人物である背の低い議員の正体など、解決されないまま小説が終わってしまうのも残念だ。
考えてみれば、「僕」は思いつきを口にするだけで、実際にすべてを執り行ってきたのはナズだった。常に忠実に「僕」をサポートしてプロジェクトを進めてきた進行役のナズの崩壊と時を同じくするように、最後の方はそれまでの緊密な構成に欠け、急いで幕を下ろしたような感じがする。主人公のマニアックなところや建物その他のハイパー・リアルな再現は、スティーヴン・ミルハウザーの小説のテイストに近い。好きな人にはたまらない作家だろう。