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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』 ジョイス・キャロル・オーツ

とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢 ---ジョイス・キャロル・オーツ傑作選
ノーベル文学賞候補の一人、ジョイス・キャロル・オーツの短篇集。ほぼ中篇といっていい表題作「とうもろこしの乙女」が、半分近くのぺージ数を占める。アンソロジーに入れると、スパイスの効いた作風がアンソロジーの風味を一段と高める役割をするジョイス・キャロル・オーツだが、本人の作品ばかり集めると、さすがに読んでいて辛いのではないかと思ったが、作品の選び方がいいのか、それほどでもなく、語りのうまさにつられて一気に読み終えてしまった。

読後、やはりノーベル文学賞は無理じゃないかな、と思った。文学的に問題があるわけでもなく、技量からいえばとって当然とさえ思えるのだが、主題となるのが、「(暗い)情念、嫉妬、孤独、劣情、欲望、残虐性」といったネガティブなものばかりで、それをいかに効果的に表現するかという点に作家的使命をかけているようなところのあるジョイス・キャロル・オーツに、近年の傾向を考えれば、財団側が賞を贈るとは思えないからだ。まあ、作家のほうも欲しいとは思ってもいないと思うけれど。

「とうもろこしの乙女」というのは、さらってきた少女を生け贄にするオニガラ・インディアンに伝わる儀式の一種。犯人は歴史博物館でその展示を見て犯行を思いついた。とうもろこしのひげを思わせる美しい金髪の少女の誘拐と拉致をモチーフに、関係する三者、被害者の母親、犯人グループのリーダーの少女、その少女の片思いを無視したことから標的にされ、警察から容疑者扱いを受ける教師の視点が交錯し、意外な結末を迎える、という倒叙ミステリである。

被害者は学習障害を持つ少女で、シングル・マザーである母親が充分な教育を施すため裕福な子女が集まる私立高に転校してきたばかり。そのため、母親は娘を一人にして夜間も働いている。一方、加害者の少女も注意欠陥症候群でリタリンを処方されている。両親を知らず、地元の名士の妻である祖母の豪邸で暮らしている。頭はいいが、素行不良で成績は下降気味、協調性がなく周囲を見下している。少女同様見かけの冴えない二人の手下を使って犯行に及ぶ。

教師は父も祖父も資産家だが、自身は一家のはぐれ者で一匹狼を任じている。他者と関わらず自身の欲望を満たすことに精力を傾ける独身貴族。少女たちにも関心はなく、なぜ犯人扱いされるのか理由が分からない。被害者の母親は、職場の上司と不倫関係にあることが、警察に被害届を出したことで明らかになり、子どもを放っておいて、男と情事にふける悪い母親という評が広まるのを恐れ、恥じるが、娘の救出を願って警察の介入を受けいれる。降ってわいた事態に見舞われ一気に周囲から指弾される身に陥った二人の困惑が他人事とは思えない。

なぜ、少女は誘拐されねばならなかったか?それは加害者の少女の劣等感、孤独、嫉妬心、肥大した自尊心、その他もろもろの心情に起因する。被害者とその母がキスするシーンを、孤独な少女は羨望の目でとらえたであろうし、コンピュータ教室の教師に一方的に好意を寄せながら、無視されることで傷つけられたプライドが一挙に復讐心にコード変換されることも、奇妙な話だが、理解可能だ。

普通だったら、理解不可能な犯罪者心理が、ジョイス・キャロル・オーツの手にかかると、まるで自分がその立場にいるように手に取るように分かる。少々困った気持ちにさせられるほど、犯罪者の側に寄り添うことができるのだ。実際、誘拐拉致を企て実行するジュードの視点で事態を見ているうちに、この少女の孤独が見に迫り、抱きしめてやりたくなってくる。被害者よりも加害者の方がいちばんかわいそうに思えてくるのだ。凄絶な事件解決の後に来るラストは、中篇ならではの余韻の残るものだが、この結末のつけ方を見るにつけジュードの孤独がいや増さる。どこまでも救いようのない人生の不条理を感じさせる一篇である。

その他の六篇。見知らぬ女性から誘いをかけられ、鼻の下を長くして待ち合わせ場所に出かけると、相手は別れた妻のもとに残した娘だった。誘われるままに車に乗って出かけた墓所で、思わぬ仕打ちに見舞われる太った中年男の危機を描いた「ベールシェバ」。こんな事態に至ったのが娘の一方的な思い込みなのか、それとも身に覚えがあるのか。そこがよく分からないのと、誰もいない場所で身動きが取れなくなった糖尿病患者ならではの恐怖がじわじわと迫る。

「私の名を知る者はいない」、「化石の兄弟」、「タマゴテングダケ」の三篇は、兄弟姉妹の近親憎悪を主題にしている点で共通している。「私の名を知る者はいない」は、新しく生まれてきた赤ちゃんに一家の関心を独り占めされた姉の嫉妬や羨望を姉の視点から描くよくあるもの。それに大きなグレーの猫をからませ、ポオ由来の恐怖小説の古典的手法で読ませる。

「化石の兄弟」、「タマゴテングダケ」は、双子の兄弟の愛憎を描いて酷似する。外向的で精力的、人を虜にする魅力を持つ兄と、内向的で見かけもさえない弟との支配被支配の関係を、虐げられる弟の側の視点から描く。どれだけ、弟がひどい目にあわされても相手の兄の側はそれを何とも思っていないという点で、いじめの加害者と被害者の関係をなぞっているが、被害者の側の愛憎が、加害者が他人ではなく実の兄という点で微妙な陰影を帯びる。ラストの決着のつけ方が秀逸。

湾岸戦争で戦死した男の妻が、遺品を役立てようと寄付しに寄った店で出会った若い男に一方的に思いを寄せ、裏切られる「ヘルピング・ハンズ」。裕福な中年女性と、戦争で生涯を棒に振った男の出会いと別れが凄まじく暴力的に描かれる。酒を口にした男の口吻に現れる変貌が生々しく、直接暴力に訴えなくても、相手を震え上がらせるのに充分な恐怖がたっぷりと用意されている。ベトナム戦争以来たて続けに戦争に見舞われたアメリカの世情不安が色濃い一篇。

「頭の穴」は、文字通り頭に穴をあける頭蓋穿孔手術の恐怖をこれまでかと描く血まみれスプラッター。公私ともに進退窮まった美容整形外科医がDIYで買った電動ドリルで、高額で手術を依頼してきた老婦人の頭に三角形の穴をあけるのだが、思いがけない出血量の多さに手が滑り、患者が死んでしまう。その始末をどうするか、遺骸を車に乗せながら考えていることと実際に行われていることが混じり合って異様な風景が現出する。どこか滑稽でいながら怖い。ジョイス・キャロル・オーツの真骨頂といえる。七篇いずれも絶妙の語りで読ませる極上の短篇集である。