宮沢賢治に『注文の多い料理店』というよく知られた一篇がある。森のなかにある西洋料理店にやって来たハンター二人が、やれ、クリームをすり込めだの、金属でできたものを外せだのという小うるさい注文に、納得するべき理由を自分たちで見つけ出しながら店の奥に進むうち、ようやくその注文が、料理を食べるためでなく、自分が料理されるために出されていたことに気づく、やっつける側がやっつけられるという皮肉風味の香辛料をたっぷり効かせた上出来のコントである。
イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を読みはじめたとき、その話を思い出した。というのも、語り手は、これから本を読もうと身がまえている読者相手に、やれ小用をすませておけ、足は机の上に投げ出せだのといった注文をやたら繰り出すからだ。まさに注文の多い小説家そのもの。そうして、早く本文を読みたいとあせる読者を焦らしながら、ようやく語りはじめた『冬の夜ひとりの旅人が』という話は、話の途中で突然打ち切られてしまう。
第一章が終わり、第二章へと歩を進めた「あなた」は、そこにまたしゃしゃり出た語り手が本の乱丁を指摘する文章に出会う。十六ページ折りの造本で三十二ページ分がそっくりそのまま同じページが綴じられていたというのだ(確かめてみたが、そんな事実はない。出版社はそこまで馬鹿正直にテクストをなぞらないということだろう)。腹を立てた「あなた」は、本屋に駆けつけ苦情を言う。本屋の言によれば、製本上のミスにより、ポーランド人作家タツィオ・バザクバルの新刊小説『マルボルクの村の外へ』と入れ替わっていたというのだ。
つまり、それまで「あなた」の読んでいた小説は、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』などではなく、ポーランド人小説家の手になるまったく別の小説だったわけだ。しかし、本好きの常として一度読みはじめた小説はその続きが読みたくて仕方がない。「あなた」は、カルヴィーノの小説など放り出し、バザクバルの小説はないかと本屋に聞く。本屋はさっき別の女性も同じことを言ったと答え、その若い女性ルドミッラを指さす。こうして、男性と女性二人の読者は出会う。
これ以降は、この二人の読者が、小説の続きを読もうと悪戦苦闘するストーリーが展開する。もうお気づきのように、どこまでいっても、『冬の夜ひとりの旅人が』という小説は完結しない。ポーランド人作家が書いたノワール風の小説が、チンメリアという相次ぐ領土分割のため、今は地上から消えた幻の国の言語で書かれた小説へと変わり、その名も『切り立つ崖から身を乗り出して』という別の作品が新たに登場し、というふうに次から次へと別の言語で書かれ、あるいは翻訳された別の小説に姿を変え続ける。
その題名だけ紹介すれば、『風も目眩も怖れずに』、『影の立ちこめた下を覗けば』、『絡みあう線の網目に』、『もつれあう線の網目に』、『月光に輝く散り敷ける落葉の下に』、『うつろな穴のまわりに』、『いかなる物語がそこに結末を迎えるか?』という、人物も筋も舞台背景も全く異なる十の小説が、その冒頭部分だけを、文学好きには分かる著名作家の文体模倣を施され、目もあやに展開される仕掛けだ。アルゼンチンのパンパを舞台に、ガウチョの登場する一篇はボルヘスだろうと見当をつけたが、あとは不勉強で知る由もない。
それだけでも愉しい仕掛けだが、カルヴィーノの愛読者にとって、もっとうれしいのは、その合間合間にはさまれる、作家イタロ・カルヴィーノの小説論だろう。自分の考える理想の小説とは、どういうものか。一度は書きたい究極の小説の形とは?読者として知りたい作家ならではのアイデアを、こんなに明かしてしまっていいのだろうかと思うほど、嘘も隠しも衒いもなく、あからさまに語ってみせる。こんなカルヴィーノ、見たことがない。
自身の分身として登場する作家サイラス・フラナリーは、自分が書けなくなった理由を「あらゆるものを含む」本を書くという「とんでもない野心、おそらくは誇大妄想的錯乱」のせいだという。マラルメ以来、文学者の抱く見果てぬ夢、すべてを包含した「一冊の本」というやつだ。しかし、そんなものはあり得ない。カルヴィーノはだから瞞着的手段に訴える。偽作者や剽窃者、怪しい翻訳家の姿を借りて、世に知られた世界文学の作家から日本人作家やソ連の反体制作家小説に至るまで、すべてのありそうな小説の断片をでっち上げたのだ。
「おのれの外にあるものに言葉を与えるためにおのれ自信を抹消しようとする作家には二つの道が開かれている。そのページの中にあらゆるものを汲み取り尽して、唯一の本となりうるようなものを書くか、それとも部分的なイメージを通じてあらゆるものを追求しうるように、あらゆる本を書くかである。あらゆるものを含む唯一の本とは完全無欠な言葉が啓示された聖なる書物以外にはありえないだろう。しかし私はそうした完全無欠さを言葉にこめうるとは思わない、私の問題は外にあるもの、書かれていないもの、書き得ないものを扱うことにある。私にはあらゆる本を書くよりほかにありうる限りのあらゆる作家の本を書くよりほかに道は残されていないのだ。」
このフラナリーの言葉をそのままカルヴィーノ自身の認識と重ねて読むほどナイーブな読者もいないと思うが、作家晩年の作品の中に披歴されていることを考えると、これまで様々な手法を試してきた実験的作家であるイタロ・カルヴィーノの考える集大成的な書物の姿と考えたくなる気にはなる。
一方で、この作品から分かるのは、カルヴィーノがただ作者が書きたい作品にのみ拘泥する独りよがりの作家ではなく、「理想の読者」を想定し、その読者が読みたいと思う「本」を書くことを突きつめようとする、読者との対話を愉しむ作家だということである。そういう意味では、読者の側も心して読みにかからねばなるまい。足を載せるのに適当な台を用意するのはもちろんのこと、小用などは読書にかかる前にすませておくのは作者に対する当然の儀礼と心得ておかねばなるまい。さて、準備万端を整え、そうしてはじめて「あなた」は、『冬の夜ひとりの旅人が』という小説を読みはじめることになる。