marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『書楼弔堂 炎昼』 京極夏彦

書楼弔堂 炎昼
山を背に、林の中に隠れるように建つ、優に三階はあるだろうという陸灯台のような変わった建物。前面に窓はなく、奥まった入り口にかかった簾に「弔」と書かれた半紙。そこが、書楼弔堂。人伝に聞いて訪ねてくる客には一見書肆には見えないこの店は目に留まらない。しかし、中に入れば吹き抜けの空間をうずめる書架には和漢洋の古書、新刊は言うに及ばず、浮世絵から新聞に至るまで、およそ文字を記した文書なら、大抵揃えている。ただし、この本屋はふつうの本屋ではない。

万巻を読み漁った主人は、人にはその人のためのただ一冊の本がある、という。弔堂を訪れる客は、主人と会話することによって、その一冊を選んでもらう。明治もはや三十年。当初は西洋に追いつくために欧化政策をとった日本も、日清戦争に勝利すると大国気分になり、国粋主義が擡頭してきていた。女子教育も始まったが、男尊女卑の風潮は改まることがない。狂言回しをつとめる薩摩士族の令嬢、塔子も女子高等師範學校を出ているが、何かと気のふさぐことの多い毎日だ。

『書楼弔堂 破暁』に続く第二弾。「小説すばる」に連載中のシリーズ物、第七話から十二話までを単行本にまとめたものである。明治三十年代初頭の東京を舞台に、当時世間を騒がした著名人が、塔子に導かれるように弔堂を訪れる。初めはその名は伏せられているが、会話の中で人物にまつわる事実が明らかになってくる。読者は、クイズ「わたしは誰でしょう」に参加している気分が味わえる趣向。訪問客の名を当てる謎解きミステリになっている。

最初から本名を明かしているので、ネタバレにはならないだろうから書いてしまうが、「炎昼」篇は、塔子のほかにもう一人、松岡國男という新体詩人がほぼ全篇に顔を出す。いうまでもなく後に『遠野物語』を著すことになる柳田國男の前身である。この時代は、見込みのない恋に悩み、将来どの道を進めばいいのか決めかねている一書生に過ぎない。一冊の単行本として読むと、毎回新しく登場する訪問客より、この松岡國男のほうにライトが当たっている。

連作短篇小説集としては一話限り、塔子が連れてくる人物にスポットライトが当たるのは当然だが、通して読むと、悩める青年松岡が、後に民俗学を起こす柳田國男になるための試練の時を描いているビルドゥングスロマンのように読める仕掛。というのも、明治に有名人は多いだろうが、井上円了泉鏡花のように、妖怪や幽霊と深い縁を持つ人物の数は限られている。得意の「憑き物落とし」をやろうにも、適当な人物がそうはいない。そこで、満を持しての柳田國男の登場である。

その工夫は功を奏して、東京帝大生の松岡を通じてメスメリズムやら、催眠術やら、オカルトめいた話にうまくつないでいる。とはいえ、「憑き物落とし」につき物の妖怪色は意外に薄い。時代の転換期に己の針路をどう取ろうかと悩める人士の行く手を、陸灯台ならぬ弔堂主人が照らすという趣きが強いのだ。もちろん、松岡が毎回手にする本として、フレイザーの『金枝篇』や、ハイネの『流謫の神々』などが登場するのも、ビブリオ・ミステリとしての『書楼弔堂』シリーズの面目を保つ。

オカルト嫌いは、京極のトレード・マークのようなものだが、なぜ嫌いかといえば、それは理が通らないからだ。不合理なことは他にもある。文明開化、四民平等を唱えながら、内実は良妻賢母をよしとし、男尊女卑を是とする日本という国の嘘っぽさを、塔子やその友人の口を借りて明らかにし、最後には、後に『妹の力』を著すことになる柳田國男によって、そんなものは日本の伝統なんかではなく、古来より日本の女性は大切な存在であったことを明らかにする。

さらには富国強兵制度によって、国民を戦地に送り出す国家の過ちをいつもは穏やかな弔堂が厳しく問い質す。その相手は、今は還俗して弔堂主人となった龍典が僧であった頃、貴方は軍人になるべきではないと何度も諭したのに聞かず、中将の位まで上り詰めた一人の男。明治の日本人を代表するといっても過言でない軍人に対し、諄々と説き語るところは、『虚実妖怪百物語』にも共通する作家の軍人嫌い、戦争嫌いが強くにじみ出ていて、本気度がうかがえる。

戦略とは、戦を略すと書くのです。戦わずに済ます方策を考えることこそが人の上に立つ者の仕事ではないのですか。戦の道を選んだ段階で、もう国は護れていない

この龍典の言葉と、作家が同じころに書いたと思われる『虚実妖怪百物語 急』に出てくる次の言葉はほとんど同じである。

国を護るために戦争をするっていうのは、そもそもおかしい訳ですよ。国が護れなくなったからこそ戦争になるんじゃないですか。外交だって経済だって、文化だって技術だってそのための手段ですよ。戦わないためのカードをどれだけ持っているか、どれだけ作れるかつうのが政治でしょうに。それが真の国防ですよ

これにとどまらず、シリーズはちがっても、主たる人物の話す言葉の内容がほぼ同じ、というのが最近の京極夏彦の気になるところである。繰り返しが悪いわけではない。大事なことは繰り返したくなるものだ。ただ、主義主張やイデオロギーの類が、手を変え品を変え、たびたび強調されると、読んでいて、ああまたか、と思ってしまうのもたしかだ。鼻につくのである。雑誌発表が2016年二月とあるから、水木しげるの死が影響しているのかもしれない。

そういえば、作中、龍典、塔子、松岡はそれぞれ大事な人と死に別れている。親しかった人と死に別れる辛さもまた、何度も繰り返し強調されているのだ。人は必ず死ぬ。しかし、死後の世界というものはある。つきあいの広かった人にはあの世も多い、という龍典の言葉はいぶかしく聞こえるが、近しい人を亡くした悲しみに暮れる者には目の前が開ける思いのする解釈である。どういう意味か気になったら本文を読んでほしい。塔子や松岡を前に主人の言い聞かせる言葉は、そのまま畏友を亡くした作家が自身に引導を渡す言葉なのだろう。