marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『マカロンはマカロン』 近藤史恵

マカロンはマカロン (創元クライム・クラブ)
『タルト・タタンの夢』、『ヴァン・ショーをあなたに』に次ぐシリーズ第三弾。商店街の中にある小さなビストロを舞台に、訳あり客の持ち込んだトラブルや悩みをシェフが解決するアームチェア・ディテクティブ・ミステリ連作短篇集である。店の名前はビストロ・パ・マル。スタッフは四人。フランスの田舎で料理修業をしてきた長髪に無精ひげの料理長三舟。スーシェフの志村。紅一点のソムリエ金子、それに狂言回しをつとめるギャルソンの「僕」(高築)の四人。カウンター席七つに、椅子席五つの店は小さいながら、いつも予約で埋まる人気店だ。

シリーズの人気を支えるのは、一つは料理。パリの有名店ではなく、フランスの地方を回り、郷土色豊かな各地の味を自分のものにしてきた三舟の出す料理は、気取らないが美味。さりげなく語られる蘊蓄も楽しく、それがミステリに付き物の謎を解く探偵術となっている。今回もアルザスの名物鍋や、フレンチ・アルプス地方のパンに隠された秘密が、人と人との心を結ぶ役割を果たす。どこから仕入れてくるのかは企業秘密だろうが、よく次から次へとこんなネタを見つけてくるものだ。また、その料理の仕方がにくい。ビストロもそうだが、リピーターはそこの味を楽しみに足を運ぶ。材料は目新しくとも、いつもの味でないと満足できない。

ほとんど厨房から出ることのない三舟は、カウンター越しに客の漏らすふとした言葉や、ホールで高築と客のかわす何気ない会話から、客の抱える悩みや問題をつかんでしまう。その場所から離れることなく持ち前の知識に論理的な推理力を働かせて謎を解く。椅子にこそ腰かけていないが、典型的なアームチェア・ディテクティブ(肘掛け椅子探偵)ではないか。スーシェフの志村もまた、鋭い観察眼の持ち主で、シェフの片腕をつとめる。三舟(船)と志村といえば映画『酔いどれ天使』以来黒澤組の名コンビ。阿吽の呼吸で謎解きにかかる手際は料理を捌くときと同じだ。

メニューに似せた意匠で供される料理は八品。いずれも、仕込みから力の入った逸品ぞろいだ。一品目は「コウノトリが運ぶもの」。コウノトリの絵柄の鍋が、いつの間にか離れたままになっていた父と娘の思いをつなぐ。フランス各地を渡り歩いた三舟ならではの郷土料理の知識と鋭い推理力が相俟って、かたくなだった乳製品アレルギーを持つ、かつてのパン職人の心を解きほぐす。事件解決の後の一言がしみじみと胸に響く名品。

自分の店を火遊びのアリバイ作りに使われた三舟が、いつになく厳しく客に接する「青い果実のタルト」。偏食がちの少年と新しい父になる男を結びつけるのに一役買ったのは、バレルいっぱいのフライド・チキンだった。いつまでも少年の心を失わない生物教師が少年の知的好奇心に火をつけた「共犯のピエ・ド・コション」。ヨーロッパ由来であれば豚の血のソーセージを食べるくせに、アジア人が食べる「四川火鍋」は野蛮だと感じる日本人の差別意識を突いた「追憶のブーダンノワール」。ここでも三舟の客を思う一言が人が心に立てる壁をこわす働きをする。

蝶ネクタイに口ひげの紳士、ムッシュパピヨンこと西田が目にとめたのは姉妹店のブーランジェリが試作したブリオッシュ・サン・ジュニ。アーモンドのプラリーヌの入ったブリオッシュで、フレンチ・アルプス地方のパン屋ではよく見かけるもの。イタリア、トリノで研修中に知り合った女性が別れるときに渡してくれたのがそれだった。その人を忘れることができず、再度訪ねたときは死んだと聞かされていたが、ブリオッシュ・サン・ジュニには、ある伝説があった。伝説に込められたメッセージを三舟が解き明かす「ムッシュパピヨンに伝言を」も泣かせる。

突然姿を消したパティシエールの残した「マカロンはマカロン」という言葉から、「彼女」の胸中を察した三舟は、昔なじみのレストランのオーナーに語りかける。男性優位の料理界で女性がやっていくことの難しさをサブ・プロットに生かした今日風の問題を追った表題作。友人のふりをして、相手を罠にかけたのか、と生肉を調理して出す料理店ならではの危機感を追求した「タルタルステーキの罠」。不穏な雰囲気がいつもとはちがった味わいを湛える。意表を突いた解決が鮮やか。

最後の一品は、めずらしく後味にほろ苦いものが残る一篇。人に喜んでもらいたいという一心が、かえって相手の心を傷つけていることがある。人間関係の難しさを題材にした「ヴィンテージワインと友情」は、ワインの持ち込みを扱ったレストランでの振る舞い入門にもなる一篇。飲みきったワイン・ボトルの底に澱のようなものが残る話だが、そこは近藤史恵。最後に救いの残る結末にしている。

出てくる料理がどれも美味しそうで、近くにビストロがあればすぐにでも飛んでいきたくなる。なかでも、スペシャリテの豚や鶏のレバーを使った田舎風パテは、きっと大好物。カリカリに焼いたバゲットに塗って食べれば絶対うまいにちがいない。赤ワインを飲みながら、それだけでもいいくらい。この本は、お腹が空いているときに読んではいけない。いわゆるフード・テロになりかねない。食事を済ませて、ゆっくりした気分で味わいたいもの。