marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『タイガーズ・ワイフ』テア・オブレヒト

タイガーズ・ワイフ (新潮クレスト・ブックス)
診療所の上層部とぶつかって無期限の停職処分となったナタリアは、ボランティアとして国境の向こうにある孤児院で予防接種をするため、機材を積んでトラックに乗り込む。かつてオスマン帝国に支配され、その後はオーストリア=ハンガリー二重帝国、さらに第二次世界大戦ではナチス・ドイツに、と戦禍の絶えることのないバルカン半島。最近では、コソボ紛争が記憶に新しい。作家の郷里旧ユーゴスラビアを思わせる架空の国が舞台。

国境の検問でのやり取りから、若い女医が直面しているリアルな状況が伝わってくる。度重なる紛争による国民の疲弊や、異なる宗教・民族間の軋轢、検問によって起きる物流の停滞が、彼女たちの活動を難しいものにしているのだ。さらに、首都から離れた僻遠の山村では、昔ながらの迷信や因習が勢力を保ち、貧困と無知が医療活動への理解を妨げている。

小国でありながら、大国に囲まれた戦略的に重要な位置にあることにより、様々な民族が出入りし、異なる宗教を信じる人々が入り混じる。そんな国に住む人々が常に直面してきた受難の歴史に裏打ちされた大きなストーリーが横たわる。その傍らに、やはり医師として長年働いてきたナタリアの祖父にまつわるサイド・ストーリーの系譜がある。

国境地帯から家に電話したナタリアは、孫の奉仕活動を手伝うと言い残して家を出た祖父が旅先で死んだと聞かされる。遺体は送られてきたものの身の回りの品々が一つもなく、祖母は怒り悲しむばかりだ。とりあえず現地に行ってみる、と言い置いて電話を切った。悪性腫瘍で余命いくばくもない祖父は、何故病を押してまで旅に出たのか。祖父の真意がわからないナタリアは、詳しくは知らなかった祖父の過去を追い始める。

章の変わり目、段落の切れ目で、ナタリアが現地で立ち向かう困難と祖父が話してくれた過去の物語とが、映画のカット・バックのように入れ代わり立ち代わり現れる。しかも、祖父の話に登場する人物や、器物それぞれの来歴が一つの短編小説のように語りだされる。まるで、話の中にわき役として顔を出した人物が次の主役となって冒険譚を語りだす『千夜一夜物語』のように。

「トラの嫁」の話は、祖父が幼い頃過ごしたガリーナ村で体験した実話だ。戦禍にあった動物園から逃げ出したトラが餌を求めて村に現れる。トラを見たこともない村人は悪魔だと騒ぐが、『ジャングル・ブック』を愛読していた祖父は、村人が見たのはトラだと気づく。肉屋のルカは年若い妻を虐待していた。トラの出現と同時にルカは姿を消し、残された少女は妊娠していた。恐れた村人は少女のことを「トラの嫁」と呼んだ。

不死身の男の話はまるで怪奇譚。銃で頭を打たれたガヴラン・ガイレは、棺桶の中から祖父に「水をくれ」と声をかける。蘇生した男は、自分は死ぬことを許されない身なのだ、と身の上話を始める。信じない祖父に男は賭けを申し出る。足に錘をつけて池に沈めよというのだ。息をのんで見守る祖父の目に歩いて向こう岸に出る男の姿が見える。その後も男は、一度といわず祖父の前に現れる。祖父が賭けた『ジャングル・ブック』は、まだ持ち歩いているのか、と確かめるように。

二つの奇譚とナタリアの直面する子どもたちの医療問題とが、いつのまにか結びついてくるところが、この小説のミソだ。この地方では、死後四十日間の間、その霊は天国に行かず地上に止まると思われていて、四十日目に十字路からあの世に旅立つことになっている。ナタリアの宿泊先に泊まっている集団は、昼夜を問わずブドウ畑の下を掘り続けている。リーダー格の男の話では、戦争中一人の男をこの辺に埋めたが、男はそれが原因で成仏できずに集団が暮らす村にたたっている。子どもたちが病気なのもそのせいだ。医者の手は借りずとも、死体を見つけたらそれでみな快癒するのだ、と。

死体を始末した灰を四つ辻に埋める役を引き受ける代わりに、子どもたちの治療を認めさせたナタリアは十字路に行き、地面に穴を掘って瓶を地中に埋め、夜半それを掘り起こしに来るという魔物を待ち受ける。もしかしたら、それが祖父の話してくれた不死身の男ではないか、と想像しながら。待つことしばし、ナタリアの前に現れたのは…。

因習的な村人と科学的な考え方に立つ医者の間に立ちはだかる壁を、ナタリアはどう越えるのか。また「トラの嫁」に心を奪われた祖父が、どうして医療の道に進むことになったのか。それが話を前に進めてゆく推進力なのだが、それにも増して、わき役の来歴の方に読みごたえがある。肉屋のルカはなぜ虐待男になったのか。その理由を知ると、その仕業は許せなくても一抹の悲哀が心に湧く。オルハン・パムクの『僕の違和感』の主人公メヴルトがはまった陥穽に、ルカもまた落ちたのだと。

剥製づくりのために獣を狩るようになったクマ狩りの名手ダリーシャ、或いは何種類もの薬草その他の薬効によって、村人の信頼を取り付けた「薬屋」の遍歴も、ルカに劣らぬ悲しさを湛えている。主筋にあたるナタリアや祖父の話もいいのだが、これらのわき役が醸し出す、名もなき人々が背負うその人固有の物語に心動かされる。もとより、それが今はアメリカに暮らすテア・オブレヒトその人の故郷の人々に寄せる思いでもあるのだろう。これが二十五歳の筆になるものだということが、読み終えた後でもまだ信じられない。史上最年少オレンジ賞受賞作。