marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』第六章(2)

《また一時間が過ぎた。暗くなり、雨にけぶった店の灯が街路の暗がりに吸い込まれていった。路面電車の鐘が不機嫌な音を響かせた。五時十五分頃、革の胴着を着た長身の若者が、傘を手にガイガーの店から出てきて、クリーム色のクーペを取りに行った。彼が店の正面に車を停めた時、ガイガーが出てきて、長身の若者はガイガーの無帽の頭に傘をさしかけた。彼は傘をたたみ、振って水を切り、車の中に手渡した。彼は店に駆け戻った。私は車のエンジンをかけた。》

このパラグラフは、双葉訳に少々難がある。まず、「雨にけぶった店の灯が街路の暗がりに吸い込まれていった」のところだ。双葉氏は「雨に煙ったほうぼうの店の光が、街路の闇にまたたいた」としている。原文はを生かして「ほうぼうの」としたところは流石だが、を「またたいた」と訳したのはつい筆がすべったか。は、辞書によれば「<物が><液体・音など>を吸収する、吸い取る〔込む〕」の意味。村上氏も「雨にもやった(傍点四字)店舗の明かりは、暗さを増す通りに吸い込まれていった」と訳している。「店舗」とすることで、いくらかでも複数の意味を付加しようということだろうが、どうだろう。

つづく「路面電車の鐘が不機嫌な音を響かせた」のところもおかしい。を、双葉氏は「電車の警鈴が、入り乱れてきこえてきた」と訳す。問題はだ。辞書には「1.横に、斜めに、2.逆に、反対に、3.不機嫌に、すねて、意地悪く」とある。「交差する」という意味のからの類推で「入り乱れて」と訳したのだろうが、にも「不機嫌」(主に英略式)の意味はある。英語に堪能だからこそ、逆に丁寧に辞書を引く必要があるのだ。村上訳は「路面電車の鐘が不機嫌そうに派手な音を立てた」。は、「ジャンジャン鳴る」という意味なので、そのまま書いてもいいように思うのだが、「ジャンジャン」には景気のよさそうな響きがあって、不機嫌とは相性がよくない。簡単な英文ほど、シンプルな訳文にならない。

双葉訳、次は一部をスッ飛ばして、勝手に文章を作ってしまっている。これは相当マズい。双葉訳「五時十五分ごろ、ジャンパーを着た若者が店から出て来て、ガイガーの無帽の頭に洋傘を指しかけた」。< with an umbrella and went after the cream-colored coupe. When he had it in front Geiger came out and the tall boy >(傘を手にガイガーの店から出てきて、クリーム色のクーペを取りに行った。彼が店の正面に車を停めた時、ガイガーが出てきて)の部分が完全に脱落している。思うに、ガイガーという単語が何度も出てくるので、「クリーム色のクーペ」の件をつい読み飛ばして訳文をつないでしまったのだろう。角に停めてあったはずの車が突然店の正面に出現する不思議さに編集者も校閲も気がつかなかったのだろうか?