《クーペは大通りを西へ向かった。私は急な左折を強いられて、多くの車を敵に回した。一人の運転手など雨の中に頭を突き出し、私を怒鳴りつけた。やっと追いついたときには、クーペから二ブロックばかり遅れていた。私はガイガーが家に帰ると信じていた。二度か三度、彼を目にした。しばらくして、彼は北に折れ、ローレル・キャニオン・ドライヴに入っていった。坂道を半分ほど登ったところで車は左折し、湿ったコンクリートが曲がりくねったリボンのような、ラヴァーン・テラスと呼ばれる所に入った。高い崖に沿った細い通りで、反対側の下り斜面には小屋のような家が散らばっていた。屋根は道路に届くか届かないくらいの高さで、正面の窓は生垣や灌木で目隠しされていた。ぐしょ濡れの樹々が見渡す限りの景観に水を滴らせていた。》
追跡場面。急な左折が並行して走る車線のドライバーの不興を買う。右側通行のアメリカならでは。
を双葉氏は「私は、ガイガーが家へ帰るところならありがたいと思った」とし、村上氏は「私はガイガーが自宅に帰ることを希望していた」と直訳している。村上氏の訳は正確を期そうとするあまり、学生の英文和訳調になるところがある。これなどもその一例。それに比べ、双葉氏の訳は、正確さではひけをとるもののハードボイルド探偵小説らしさでは上をいく。いかにも追う者の気持ちが伝わってくる訳文だ。ただ、探偵というのは、犯人の心理を推理しつつ行動するもので、両氏ともに、マーロウの推理力を甘く見ている。マーロウは、ガイガーの心理を読み切っているものとして、「信じている」と訳したい。
次ののところも意味は明白だが訳すとなると厄介だ。村上氏も「私は彼の姿を二度か三度ちらりと目にした」と訳している。前を行く車が角を曲がるときなどに一瞬垣間見たことを指すのだろうが、あまり上手い訳とはいえない。双葉氏はここを「見えかくれするうちに」と訳している。上手いものだ。類語辞典を引いてみても「見え隠れ」以上にぴったりくる表現は得られなかった。借用することも考えたが、ここは敬意を表してやめておくことにした。こういうときは、ぴたりとあてはまる言葉が見つかるまで、直訳調で済ますことにしている。
「テラス」というのは、「(道路より高くしたり、坂道に沿った)連続住宅の並び」を指す。
双葉訳はこうだ。「坂道を途中で左へ折れ、ぬれたコンクリートの曲がりくねった帯をたどった。ここはラヴァーン・テラスだ」。村上訳は「急な坂を半分ばかり上がったところで、彼は左折し、濡れたコンクリートのくねくねした道路に入った。ラヴァーン・テラスというのが通りの名前だ」。どこが問題だ、という声が聞こえてきそうだ。<a curving ribbon of wet concrete>(湿ったコンクリートの曲がったリボン)が表しているのは、道路だけなのか、宅地を含む一帯を表すのか、ということだ。村上訳だと、ラヴァーン・テラスは通りの名でしかない。双葉訳は原文に忠実に「通り」という単語を使っていない。通りの名前が地名になることはよくあることで、それ自体に何の問題もない。ただ、村上氏の文章を読んでいると、必要以上に通りに目が向けられている気がしてくる。マーロウの目は、道に向けられているのだろうか。その後に続く周囲一帯の景観描写から考えると、ラヴァーン・テラスはあたり一帯を指していると考えるのが妥当だろう。