marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第八章(2)

《雨が降りしきるカーブした通りをうねうねと十ブロックほど下っていった。樹々から小止みなく滴り落ちるしずくの下を抜け、薄気味悪いほど広大な敷地に建ついくつかの豪壮な邸宅の窓に灯りが差す前を通り過ぎた。軒やら破風やら窓灯りやらのぼんやりとしたかたまりが丘の高いところに見えた。遠く離れて近寄り難い、まるで森の中にある魔女の館のように。無駄にまぶしい明かりに照らされたガソリン・スタンドがあった。白い野球帽にダーク・ブルーのウィンドブレイカー姿の係員が背中を丸めてスツールに腰かけ、曇ったガラスの内側で退屈そうに新聞を読んでいた。私は中に入りかけ、それから歩き続けた。私はすでにぐっしょり濡れそぼっていた。こんな夜にタクシーを待ってたら髭が伸びてしまう。また、タクシー運転手はよく覚えているのだ。》

ここも難儀した。ある種の名文なのだろう。探偵小説の淵源たるゴシック・ロマンスの雰囲気を濃厚に漂わせる。「雨が降りしきるカーブした通りをうねうねと十ブロックほど下っていった」と訳した箇所、原文は<Ten blocks of that, winding down curved rain-swept streets,>だ。双葉氏の訳を見てみよう。「曲がりくねった下り坂を十ブロックほど」と、長文の途中に挿入句として入れている。<curved rain-swept streets>は、あっさりカットされている。村上氏はどうだろうか。「雨に洗われたカーブした道路を、十ブロックばかり下った」だ。

<curved rain-swept streets>は「雨に洗われたカーブした道路」でも「雨が降りしきるカーブした通り」でも、さほど変わりはない。後者の方が、今雨が降っているという感じが強いところがちがうだけだ。<winding down>を双葉氏は「曲がりくねった下り坂を」という意味にとっているが、村上氏は「下った」と、訳している。では<winding>はどう処理されたのか。「カーブした道路を」下るのだから同じことを二度繰り返すこともない、とカットしたのだろう。

<winding>はビートルズの歌にも出てくる。『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』だ。「曲がりくねった」と訳されるのは<road>(道)を修飾する形容詞として使われることが多いからだ。<winding down>と使われた場合、「〜をうねうねと下っていく」の意味になる。この「うねうねと」がないと、曲がりくねった下り坂を降りる感じがよく伝わらない。何しろ十ブロックもあるのだ。大きく湾曲しているのではない。九十九折りの坂道である。

「遠く離れて近寄り難い」は<remort and inaccessible>。双葉氏は完全にカットしている。村上氏は「それは遥か遠くにある手の届かないものに見えた」と逆に長い。原文はゴシック調の六行に渡る長い一文の後に、改行なしに突然来るのが「無駄にまぶしい明かりに照らされたガソリン・スタンドがあった」だ。双葉氏は原文同様改行なしに続けているが、村上氏は改行している。

その気持ちはよく分かる。文の情調というものがまったく異なるのだ。まるで、ギュスターヴ・ドレの版画の後に、エドワード・ホッパーの絵をくっつけたようなものだ。雨夜のガソリン・スタンドの光景だが、双葉氏は<stool>を「床几」と訳している。いくらなんでもアメリカ西海岸に床几はない。今となっては「床几」と訳されても読者には通じない。村上氏もそうしているように片仮名書きでいいだろう。

マーロウは、電話でタクシーを呼ぼうと考え一度中に入りかけるのだが、双葉氏は<I started in,then kept going.>を「私は歩きつづけた」と前半を訳さないで済ましている。これだと、次の「もう、ぬれられるだけぬれていた」が、うまく続かない。村上氏は「私は中に入りかけたが、思い直してそのまま歩き続けた」と、マーロウの内心まで付け加えて訳している。丁寧な訳であることはまちがいないが、今度は小さな親切が大きなお世話と受け止めれるおそれがある。なぜなら、その短い文に続けて、マーロウは自分の考えを吐露しているからだ。<I was as wet as I could get already.>と。

今さらタクシーを呼んでもずぶ濡れの体はどうにもならない、と思い直したのだ。それに、人通りのない場所だけに流しのタクシーも通らない。電話で呼んでも時間のかかる場所にいる。皮肉の一つも出ようというものだ。<And on a night like that you can grow a beard waiting for a taxi.>。タクシーを待っている間に髭が伸びる、というのはいかにもマーロウらしい科白だが、次の<And taxi drivers remember.>というオチがよく分からない。双葉氏はこう解釈している。「運転手仲間も、客の覚悟を心得ているので、やって来ない」。

村上氏はちょっとちがって、「それにタクシーの運転手というのは記憶力がいい」だ。なぜ、ここに運転手の記憶力の良し悪しが出てくるのだろう。もしかしたら第六章でマーロウを怒鳴りつけた<motorman>のことを思い出しているのだろうか?もっとも、<motorman>は、路面電車などの運転士を指すらしいから、敵に回した多くの車の中にタクシーがあったのかもしれない。そう取れば意味は通じるのだが、どんなものだろう。自分でも納得のいかない訳だが、「また、タクシー運転手はよく覚えているのだ」と、しておいた。チャンドラーが生きていたら、質問したいところである。