marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第九章(1)

《翌朝はからりと晴れて明るかった。目を覚ますと、口の中に路面電車運転士の手袋が詰まっていた。私はコーヒーを二杯飲み、二社の朝刊に目を通した。アーサー・グイン・ガイガー氏に関する記事はどちらにも見つからなかった。しわをとろうと湿ったスーツを振っていると電話が鳴った。地方検事局主任捜査官のバーニー・オールズだった。スターンウッド将軍を紹介してくれた男だ。
「どうしてる?」彼は切り出した。よく眠り、借金もあまりない男の声だった。
「二日酔いだ」私は言った。
「ちぇっ」彼は気のない様子で笑い、それから彼の声はほんの少しくだけ気味になった。隙のない警官の声音だ。「スターンウッド将軍にはもう会ったのか?」
「ああ、まあ」
「何かしてやったのか?」
「雨が降りすぎた」私は答えた。もしそれが答えになっていたなら。
「一家に何事か起きたようだ。家族の一人が所有する、大型のビュイックがリドの釣り桟橋付近に上がった」
私は受話器を壊れるくらい強く握り、息を凝らして待った。
「それがな」オールズはご機嫌だった。「見事な最新型ビュイック・セダンが海水と砂でひどい有様だ……ああ、もう少しで忘れるところだった。中には男が一人乗っていた」
私は聞こえないほど静かに息を吐いた。
「リーガンか?」私は訊いた。
「何だって、誰のことだ?ああ、上の娘が拾ってきて結婚した、もと酒の密売屋か。俺は会ったことがない。そいつは海の底で何をしていたんだ?」
「時間稼ぎはよせ。海の底にいたのは誰だったんだ?」
「俺は知らない。それを見に行くところだ。一緒に行くか?」
「そうしよう」
「急ぐことだな」彼は言った。「俺は、兎小屋にいる」》

かつての同僚で今も地方検事局で働くバーニー・オールズとの電話での会話。気のおけない間柄ならではのくだけた会話が楽しい。「目を覚ますと、口の中に路面電車運転士の手袋が詰まっていた」は<I woke up with a motorman’s glove in my mouth.>。双葉氏は「目を覚ますと、口の中が自動車工の手袋をおしこんだみたいだった」と直喩に替えている。村上氏は「口の中には機関車運転士の手袋が一組詰まっていた」と隠喩のままだ。<mortorman>は、自動車工でもなければ機関車運転士でもなく、電車の運転士のことだ。何しろモーターを扱うのだから。村上氏の「機関車」が(電気)機関車であることは十分考えられるが、「機関車運転士の手袋」と書かれると、つい蒸気機関車の方を思い浮かべてしまう。

単数か複数かにこだわる村上氏ならではの「一組」の付加だが、ただでさえごわごわして分厚い革手袋だ。果たしてそこまでこだわる必要があるのだろうか。ただし、次の「朝刊二紙に目を通したが」の「二紙」は、あってよい付け加え。その後に<either of them>と出てくるので、「二紙」を書いておかないと、双葉氏のように「どの新聞にも」と訳さなければならなくなる。「どちらにも」とするには前もって二つであることを示しておく必要がある、と村上氏は考えたのだろう。

「どうしてる?」と訳したところは<Well, how’s the boy?>。双葉氏は「どうだい?」、村上氏は「やあ、元気かね?」だ。ここは短い挨拶の常套句が多い。<tsk>だとか<Uh-huh>だとか<Yeah>だとかどう訳したらいいのか見当がつかないのもある。辞書を引いてうまくあてはまりそうな訳を試みた。順に「ちぇっ」、「ああ、まあ」、「それがな」。双葉氏のそれは「ちぇっ」、「うふう」、三つめは略している。村上氏になると、「ははあ」、「まあね」、「そうなんだ」だ。どうでもいいようなところだが、二人の親しさがどれくらいのところかが分かるようにはしておかなければいけないと思う。

「彼は気のない様子で笑い、それから彼の声はほんの少しくだけ気味になった。隙のない警官の声音だ」は<He laughed absently and then his voice became a shade too casual, a cagey cop voice.>だ。オールズの声は、実際のところどのように変化したのだろう。双葉氏の訳は「彼は気が乗らない調子で笑ったが、ひどく親しそうな、警官十八番の猫なで声になった」。村上氏は「彼はおざなりに笑い、それからいかにもさりげない、抜け目のない警官の声音になった」。「警官十八番の猫なで声」と「抜け目のない警官の声音」では、いささか異なるような気がする。

<a shade>には「わずかに、少し」の意味がある。<too casual>の方は、カジュアルすぎる、というそのままの意味だ。それが<cagey>な警官の声ということになるのだが、<cagey>には「遠慮がちで、はっきり言わない」という意味と「用心深い、抜け目のない」の二つの意味がある。警官につけるとなると後者の方だろう。親しさを装って相手から情報を聞き出そうという、いかにも警官らしい声ということになる。両氏の訳で問題はないのだが、どちらにせよ<a shade>のニュアンスが落ちている気がする。

オールズは、まずは無難な挨拶から入り、やがて本気モードに切り替えたのだろう。その切り替えを大きく変化させるのではなく、「ほんの少し」カジュアル過ぎる口調に変えた。マーロウにはそれが手に取るように分かる。このあたりに二人の付き合いの長さがあらわれている。それは、マーロウについても同じことが言える。だから、息を凝らしたり、息遣いが聞こえないように注意して息を吐いたりしているのだ。優秀な二人の捜査官の心理戦である。

「雨が降りすぎた」は<too much rain>。双葉氏は「雨が多すぎたよ」、村上氏は「雨が強すぎた」だ。どれをとるにせよ、答えにはなりそうもない。マーロウのはぐらかしである。オールズもそんなことは先刻承知で、即用件に入る。オールズの告げたのは<They seem to be a family things happen to. A big Buick belonging to one of them is washing about in the surf off Lido fish pier.>。「リドの釣り桟橋付近に上がった」のところを、双葉氏は「リドの漁船波止場の先の海岸で発見されたんだ」、村上氏は「リドの魚釣り用桟橋近くに打ち寄せられていた」と訳している。<wash about>は、「(液体の中でのように)漂う」だ。村上氏の「打ち寄せられていた」は、その辺の感じをうまく伝えている。

「私は聞こえないほど静かに息を吐いた」は<I let my breath out so slowly that it hung on my lip.>。双葉氏は「私はおさえた息をゆっくり吐き出した。くちびるにひっかかってとまるほどゆっくりだった」としている。一見すると直訳に近い、こちらのほうが正しく思える。では村上氏はどう訳しているのか。「私は相手に聞こえないくらい静かに息を吐いた」だ。どうしてこんな訳になるのだろうか?

<so〜that>構文だから、ふつう程度を表す「たいへん〜なので…だ」と訳すことになる。双葉氏は文字通り「ゆっくり」の程度を「くちびるにひっかっかてとまるほど」ととった。村上氏は「静かさ」の程度を「相手に聞こえないくらい」と取ったわけだ。どうなんだろう。実は<hang on someone’s lips>には「人の言うことに耳を傾ける」の意味がある。村上氏は、この用法を知っていて、こういう訳を思いついたのではないだろうか?

息せき切って言うのではなく、「私の言うことがよく聞こえるくらい静かに私は息を吐いた」。相手が聞きまちがえないように、自分の吐く息を抑えながら「リーガンか?」と訊いたのだ。なるほど、と思いながら一つ疑問が残る。ならば、どうして<lip>と単数にしているのだろうか。言葉を話すためには唇は二枚必要だ。一枚だけなら上唇か下唇かのどちらか一方を意味する。唇をかみしめたり、突き出したりする場合なら<lip>もありだ。そう考えると、双葉氏の訳が案外正解なのではないか、という気もしてくるのだが。

「そいつは海の底で何をしていたんだ?」は<What would he be doing down there?>。双葉氏は「あんな海岸で何をしてたんだろうな?」。村上氏は「その男が海の底で何をしていたんだ?」。原文のどこにも海についての言及はないのだが、< down there>にある「下方」の意味を持つ訳語がなかなか出てこないので、つい陸より下方にある「海」という単語に頼ることになる。はじめは「そんなところで」と訳してみたのだが、次のマーロウの科白にうまくつなげることができなかった。

それが<Quit stalling. What would anybody be doing down there?>。<he>を<anybody>に入れ替えるだけで、そのまま相手の言葉を使って問いを投げ返している。「時間稼ぎはよせ。海の底にいたのは誰だったんだ?」と訳してみた。双葉氏は「とぼけるのはよせよ。誰が何のためにそんなところへ行ったんだ?」と、訳している。この訳が最もぴったりしているのではないか。村上氏は「おとぼけはよせよ。中にいたのは誰だ?」と直截的だ。マーロウの気持ちはよく分かるようになったが、マーロウの返事がオウム返しになっているところが消えてしまっている。

「俺は、兎小屋にいる」は<I’ll be in my hutch.>。双葉氏はこれを「おれのぼろ車で行く」と訳しているがどうなのだろう。<hutch>は「ウサギ小屋」や「檻」を意味するが、欧米人が日本人の住居を「ウサギ小屋」と呼ぶことから分かるように、居住空間の狭小さをからかうときに使う常套句だ。村上氏は「俺はこのつつましいオフィスにいるからな」と、かみ砕いて訳すことで、謙遜の感情を表現しているが、もっと強い「自己卑下」を表しているととりたい。マーロウはそこを出て、一国一城の主だが、自分はまだ宮仕えの身という立場の違いを皮肉っているのだろう。同僚だったころオフィスのことを<hutch>と呼んでいたのかもしれない。