marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第九章(5)

《眼鏡をかけて疲れた顔をした小男が黒い鞄を下げ、桟橋を降りてきた。彼は甲板のまずまず清潔な場所を探し当て、そこに鞄を置いた。それから帽子を脱ぎ、首の後ろをこすりながら海を眺めた。まるで何をするためにここに来たのかを知らないかのように。
 オールズが言った。「お客さんはそこにいるよ、先生。昨夜桟橋から落ちたんだ。九時から十時の間だろう。分かってるのはそれくらいだ」
 小男はむっつりと死んだ男を見た。彼は頭に指をかけ、こめかみの傷跡をじっと見た。両手で頭を動かし、男の肋骨に手を当てた。だらんとした死人の手を持ち上げ指の爪をじっと見た。彼は手を放し、それが落ちるのを見た。鞄のところに戻るとそれを開け、「到着時死亡」と印刷された書類一式を取り出すとカーボン紙を敷いた上から書き始めた。
 「明らかに首の骨折が死因だ」書きながら、彼は言った。「という事は、あまり水は飲んでいない。という事は、空気に触れたことで死後硬直が急速に進行中といえる。硬直しきる前に車から出した方がいい。硬直後に動かしたくはないだろう」
 オールズは頷いた。「死んでからどれくらいたちます?先生」
「私には分からんよ」 
 オールズは素早く彼を見て、口から葉巻をとり、一瞥をくれた。「お目にかかれて何よりです、先生。五分以内に判断がつかない検死官にかかっちゃお手上げだ」
 小男はむすっとした顔でにやりと笑い、鞄の中に書類綴りを入れ、鉛筆をヴェストに戻しクリップで留めた。「もし彼が昨夜夕食を食べてれば、教えられるがね――何時に食べたかが分かればだよ。しかし、五分以内には無理だ」
「傷跡はどうやってできたんです――落ちたときですか?」
 小男はもう一度傷跡を見て、「そうは思わんね。これは何か覆われた物で殴打されたんだ。生きているうちに皮下出血している」
ブラックジャックですか?」
「可能性は高い」
 小柄な検死官は頷くと、鞄をつかみ甲板を降りて桟橋への階段を上った。救急車がスタッコ塗りのアーチの外にバックで入りかけていた。オールズは私を見て言った。「行こうか。無駄足だったな?」
 我々は桟橋に沿って戻り、オールズのセダンに乗り込んだ。彼は力業でハイウェイの方に車の向きを変え、雨がきれいに洗い流した三レーンのハイウェイを町の方に引き返した。低く緩やかな起伏を見せる丘を通り過ぎた。黄味がかった白い砂地にピンク色の苔が段をつくっていた。海の方には数羽の鴎が波の上の何かに襲い掛かろうと輪をかいていた。沖合には白いヨットが、空に吊るされているように見えた。》

小男の検死官とオールズのやり取りが見もの。早く結果を知りたい捜査官とルーティン・ワークを卒なくこなす検死官の間に火花が散る。「硬直後に動かしたくはないだろう」の部分は<You won’t like doing it after.>。双葉氏は「あとだとせわがやけるよ」。村上氏は「そうしないと素直に車から降りてくれなくなるぞ」だ。両氏ともかなりの意訳を試みている。こういう何という事のない文をどう訳すかが、訳者の腕の見せ所なのかもしれない。

「五分以内に判断がつかない検死官にかかっちゃお手上げだ」は<A coroner’s man that can’t guess within five minutes has me beat.>。双葉氏は「五分以内で判断がつかない監察医に会っちゃ、僕もぺしゃんこだ」。村上氏は「五分以内におおよその検討をつけられない検死医に会うと、一日が薄暗くなる」と訳している。<has me beat>に、そんな意味があるのだろうか?スラング辞典でも出てこない訳だ。

ブラックジャックですか?」<Blackjack, huh?>の後の<Very likely.>を例によって双葉氏は省略している。頷いているからいいだろうと思ったのか。「行こうか。無駄足だったな?」は<Let’s go. Hardly worth the ride, was it?>。双葉氏は「行こうや。はるばる車を飛ばしてくるだけの値打ちはなかったな」。村上氏は「さあ、引き上げようぜ。わざわざ出向いた甲斐はあまりなかったみたいだな」だ。両氏の訳文に文句をつける気は毛頭ないが、原文の簡潔さを引き写すような訳がしたいと思っている。

次の「彼は力業でハイウェイの方に車の向きを変え」の「力業」という語もそうだ。原文は<He wrestled it around on the highway>だが、双葉氏は「彼は国道で車をまわし」とあっさり訳してしまっている。<wrestle>(組み打ちする・格闘する)というオールズの悪戦苦闘ぶりを訳さないのは惜しい。村上氏は「彼は半ば強引にその車をハイウェイまで進め」とさすがに<wrestle>を生かして訳しているが、レスリングを想起させる<wrestle>の訳語としては「力業」の方がぴったりくると自分では思っている。何度も言葉を置き換え、やっとおさまった時のすっきりした気持を味わうのが、ここのところ愉しみになっている。

逆に、今一つ納得がいかないのが「ピンク色の苔」と直訳した<pink moss>だ。双葉氏は「桃色の茨(いばら)」としているが、<moss>に「茨」の意味はない。もっともひっくり返して< moss pink >とすると「芝桜」の画像がひっかかるから、苔のように一面に地を覆う植物なら、<moss>という語を使う例があるのかもしれない。因みに村上氏も「ピンク色の苔」としている。おそらく、それより外に訳し様がなかったのだろう。