marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第九章(6)

《オールズは顎を私の方に向けて言った。「彼を知ってるのか?」
「ああ。スターンウッド家の運転手だ。昨日まさにあの車を磨いてるところを見かけた」
「せっつく気はないんだがな、マーロウ。教えてくれ。仕事は彼に何か関係があったのか?」
「いや、彼の名前さえ知らない」
オーウェン・テイラーだよ。なぜ知ってるかって?面白いことに、一年ほど前にマン法で逮捕したことがある。あいつはスターンウッド家の跳ねっ返りを、妹の方だよ、ユマへ連れ出したらしいんだ。姉が追いかけて連れ戻し、オーウェンは豚箱入り。さて次の日、姉が検事局にやってきて小僧を釈放してほしいと検事に頼んだ。彼女の言うには、小僧は妹と結婚するつもりだったが、妹が分かってなかった。妹は箍を外してどんちゃん騒ぎがしたかっただけだと。それで釈放したんだが、忌々しいことに一家はあいつを復職させたんだ。それからしばらくして、我々は彼の指紋に関して通例の報告をワシントンから受け取った。彼には前があった。六年前にインディアナで強盗をやらかしたんだ。彼は半年間、あのデリンジャーが脱走した郡刑務所にくらいこんでた。我々はこの件を伝えたが、スターンウッド家はあいつを雇い続けている。「どう思うね?」
「おかしな一家だ」私は言った。「昨夜のことについて彼らは知ってるのか?」
「いや、俺は今から彼らに会いに行かねばならない」
「老人だけはそっとしておいてやってほしい。出来ればだが」
「どうしてだ?」
「彼はただでさえ揉め事を抱えているし、病気でもある」
「リーガンのことを言ってるのか?」
私は顔をしかめた。「私はリーガンについては何も知らない。言ったはずだ。私はリーガンを探していない。私の知る限りリーガンは誰にも迷惑をかけていない」
オールズ「ああ」と言いながら、考えに耽るように海をじっと見た。それでセダンは道を外れかけた。そのあとは街に着くまで、ほとんどしゃべらなかった。彼はハリウッドのチャイニーズ・シアターの近くで私を降ろし、アルタ・ブレア・クレセントのある西の方へ引き返した。私はカウンターに凭れてランチを食べ、夕刊に目をやったが、ガイガーについては何も載っていなかった。
 ランチが終わってから、私はブルバードを東へ歩いてもう一度ガイガーの店を見に行った。》

あまり問題になる箇所はない。オールズの話の中で一箇所だけ訳が異なるところがある。原文はこうだ。<She says the kid meant to marry her sister and wanted to, only the sister can’t see it.>。双葉氏はここを「若造は妹と結婚するつもりで連れ出したんだが、姉の自分はその事情を知らなかったという言い草さ」と訳している。<sister>が、二度出てくる。姉か妹か分かりにくいかもしれない。しかし、ちゃんと読めば分かるように書かれている。

村上氏の訳を見てみよう「彼は妹と結婚したがっており、本気で夫婦になるつもりだったのだが、妹の方にはそんな気持ちはさらさらないのだ、と彼女は言う」だ。これは村上氏の訳が正しい。先に出てくる<sister>の前には<her>がついているので前後から「彼女の妹」と分かる。次の<sister>の前には<the>がついているので「話題の」人物の方であることが分かる。つまり「妹」のことだ。それでは妹はどう思って男についていったのか?

<All she wanted was to kick a few high ones off the bar and have herself a party.>。作者もここでいう「彼女」が分かりにくいと思ったのだろうか<she>をイタリックにしている。双葉氏はここを「大山鳴動して鼠一匹というところだ」と、大胆な意訳をしている。ここの<she>を姉妹のどちらと取るかで、意味は変わってくるはずだが、この一文も後半はともかく、前半の< kick a few high ones off the bar>はあまり馴染みのない文句なので、出来合いの文句にパラフレーズさせて良しとしたのではないだろうか。村上氏は「妹はただ羽目を外して、派手に遊びまわりたかっただけなのだと」とやはり意訳している。直訳すれば「高い方のバーを少し蹴っ飛ばして」となるから、「障害を取り払う」の意味だととったのだろう。

「私はカウンターに凭れてランチを食べ、夕刊に目をやったが、ガイガーについては何も載っていなかった」は<I ate lunch at a counter and looked at an afternoon paper and couldn’t find anything about Geiger in it.>。双葉氏は「私は簡易食堂でランチを食い、夕刊を一枚読んだが、ガイガーの記事はなかった」。村上氏は「私は簡易食堂で昼食をとり、午後刷りの新聞を見た。ガイガーに関係した記事は見当たらなかった」だ。二人とも「カウンター」のことを「簡易食堂」と訳しているが、そもそも「簡易食堂」とは何のことだろう。

調べたところ、大正時代に都が作った、安い値段で食べられる食堂のことを指すらしい。そんなものがアメリカにあるはずもないが、双葉氏の年代には、それで喚起するイメージがあったのかもしれない。しかし、村上氏の場合はどうだろうか。逆に「簡易食堂」で検索すると<lunch counter>という言葉がひっかかった。「(カウンター式)軽食堂」という訳語が記されていた。これなら分かる。分かるが、軽食堂というのも古臭い。

どんなランチか詳しく書いていないが、一番ありそうなのはホットドッグ・スタンドで出来立てをパクついたのをわざと「ランチ」と洒落て見せたのではないだろうか?それとも「ダイナー」くらいには行ったのか?とにかく、カウンターのある店だ。それに新聞を<read>ではなく<look>しているところから見て、あまり時間をかけてはいないことが分かる。椅子に座ったかどうかさえ書いていないのだ。知らないことについては書かないという鉄則で上記のように訳しておく。

<afternoon paper>を村上氏は「午後刷りの新聞」と文字通りに訳しているが、アメリカにはそういうものがあるのだろうか?一部の辞書には「夕刊」という訳語があるので、それに従うことにした。双葉氏がめずらしく、単数、複数にこだわって、「夕刊を一枚」と訳しているのが面白い。村上氏は複数の場合にはこだわりを持つが、単数の場合はそれほどでもないようだ。それより<look>の方を気にして「新聞を見た」と律儀に訳している。(第九章了)