marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第十二章(2)

《娘と私は立ったまま互いを見かわした。彼女は可愛いらしい微笑みを保とうとしていたが、それには彼女の顔は疲れすぎていた。彼女の顔から表情が消えつつあった。砂浜から引いてゆく波のように顔から微笑みが流されてゆく。彼女のぼうっと麻痺したように空虚な眼の下で、青白い皮膚は肌理が荒くざらざらして見えた。白っぽい舌は口の隅をなめていた。可愛いいが、甘やかされて育ち、賢いとはいえない少女をめぐる状況は悪化する一方だというのに、誰も手を貸してやらなかった。金の亡者め。胸くそが悪くなる。私は指で煙草を巻き上げると、何冊かの本を邪魔にならないところにどけ、黒い机の端に腰かけた。煙草に火をつけ、煙を吐き出し、暫くのあいだ黙って親指と歯の仕種をながめた。カーメンは悪さをして校長室に呼ばれた少女のように、私の前に立っていた。
「ここで何をしていたんだ?」私はやっとたずねた。
彼女はコートの生地をつまんで答えなかった。
「昨夜のことはどれくらい覚えているんだ?」
それには答えた――彼女の眼の奥にずるそうな光が浮かんだ。「覚えてるって、何を?私は昨夜、具合が悪くって家にいたけど」声は警戒心の強い嗄れ声で、かろうじて聞こえてきた。
「ふざけちゃいけない」
彼女の眼が素早くまたたいた。
「君が家に帰る前だ」私は言った。「私が君を家に送る前のことさ。ここで、椅子に腰かけて」――私は指さした。「オレンジ色のショールの上で。ちゃんと覚えてるはずだ」
ゆっくりと彼女の喉に赤みが這い上がってきた。まずは、よかった。彼女は恥ずかしがることができたのだ。不安気な灰色の虹彩の下に白く輝く光があった。彼女は親指を強く噛んだ。
「あれは――あなただったのね?」彼女は息をついた。
「私だ。どれくらい君につきあえばいいんだ?」
彼女はぼんやりと言った。「あなたは警察の人?」
「ちがう。私は君のお父さんの友だちだ」
「ほんとうに警察じゃないのね?」
「ああ」
彼女は微かにため息をもらした。「あの――あなたはどうしたいの?」
「誰が彼を殺したんだ?」
彼女の肩がびくっと動いたが、顔の表情は変わらなかった。「他に誰が――知っているの?」
「ガイガーの件か?私は知らない。警察もだ。知ってたらここは彼らでいっぱいだろう。ジョー・ブロディなら、知っているかも」
鎌をかけてみただけだが、それを聞くと彼女は叫んだ。
ジョー・ブロディ!あいつ!」
それから二人とも黙った。私はだらだらと煙草を吸い、彼女は親指を口にした。》

カーメンと向かい合ったマーロウが、娘の顔を観察するところ。「彼女の顔から表情が消えつつあった。砂浜から引いてゆく波のように顔から微笑みが流されてゆく。彼女のぼうっと麻痺したように空虚な眼の下で、青白い皮膚は肌理が荒くざらざらして見えた」の原文は<It kept going blank on her. The smile would wash off like water off sand and her pale skin had a harsh granular texture under the stunned and stupid blankneee of her eyes.>。

双葉氏は「微笑はぜんぜん用をなさず、波にさらわれる砂みたいに消え、目の下の白痴的な空虚さと、ざらざらになった青白い皮膚が、目立つだけだった」。村上氏は「あらゆる表情が空白へと向かっていた。微笑みは砂地に吸い込まれる水のように、いまにも消えてしまいそうだ。瞳は虚を衝かれたように愚かしく空っぽで、そのせいで目の下の青白い皮膚は余計にざらついて荒れて見えた」だ。

知的な関心や好奇心が人並みにある少女なら、顔見知りの男と向かい合って立ったなら、微笑を浮かべるのは自然だろう。ところが、この娘は、意識してもそれすら長くは耐えられないのだ。顔中に広がっていく無関心を描写するチャンドラーの筆が冴える。<It kept going blank on her>だが、<keep going>は何かを続けること。彼女の顔の上で空白部分が増え続けていった、ということだろう。直訳すれば、村上氏のように訳することになる。ただ、「表情が空白に向かう」という訳はあまりに生硬だ。また、双葉氏の訳では表情があるように読める。囲碁ではないが、白地が広がるというのは、黒い石が消えてゆくことだ。後に続く描写はそれを詳しくしたものである。

「砂浜から引いてゆく波のように顔から微笑みが流されてゆく」は<The smile would wash off like water off sand>。同じように微笑は消えていくにしても、双葉氏と村上氏では消え方が異なる。微笑みは波にさらわれるのか、それとも水のように砂地に吸い込まれるのか。村上氏の訳からは<wash off>(洗い落とす)の語感が響いてこない。また双葉氏の訳では、砂が波にさらわれているが、<like water off sand>は「水が砂から離れてゆくように」の意味で、波にさらわれたなら砂は離れられない。そうではなく、表情が消えた後に残るのは、「砂」のようにざらついた皮膚なのだ。

微笑みというのは、眼や皮膚の下の筋肉の微細な動きによって成立している。それは、知情意といった、人間の内部にある感情や心理と関連して働く部位である。カーメンの眼も表情筋も内心との連絡が切れているので、単なる物質として存在している。精神というものが崩壊しつつある人間の肉体の持つおぞましさをここまで冷徹に評しているのは、その後に来る唐突な怒りの表出を納得させるためだろう。

「可愛いいが、甘やかされて育ち、賢いとはいえない少女をめぐる状況は悪化する一方だというのに、誰も手を貸してやらなかった。金の亡者め。胸くそが悪くなる」は<A pretty, spoiled and not very blight little girl who had gone very, very wrong, and nobody was doing anything about it. To hell with the rich. They made me sick.>。

双葉氏は「ひどく、ひどくまちがった道に突っ走ったのに、誰もめんどうをみてやらない美しいわがまま娘、明るくかわいいとはいいにくい娘だ。金持ちどもくそくらえ。奴らは私にゲロを吐かせる」といかにもハードボイルド調に訳している。村上氏は「スポイルされた美しい娘、決して聡明ではない。彼女を追ってものごとはとても面倒な方向に進んでいくが、それに対して誰も手を打とうとはしない。金持ちはこれだから困る。こういう連中には実にうんざりさせられる」と、上品だ。

<go to hell>は罵倒を表す俗語として「くそくらえ」と訳すのが普通だが、いつもそれだと手抜きに感じられる。村上氏もそう思ったのだろう。しかし、どこかに原文の名残はとどめておきたい。そこで「我利我利亡者」という言葉を思いついたのだが、近頃はあまり使わない。アイスの名前とまちがわれても困るので、「金の亡者」とした。<hell>(地獄)に「亡者」はつきものだろう。

「私は指で煙草を巻き上げると」は<I rolled a cigarette in my fingers>。ここを双葉氏は、「私は指先で煙草をころがしながら」と訳している。村上氏は「私は煙草を一本巻き」だ。<roll a cigarette>という成句は「煙草を巻く」という意味でまちがいないのだが、マーロウは、今まで煙草を巻いたことがあっただろうか?全部を訳し終えた後で手直しすることがあるかもしれないが、今は巻き煙草を作るという訳をとりたい。

「彼女の眼が素早くまたたいた?」は<Her eyes flicked up and down very swiftly.>。双葉氏は「彼女の目が非常な速さでまたたいた」。村上氏は「彼女の目はさっと燃え上がり、そしてあっという間に静まった」としている。<flick>に、「パチンとはじく、ぴくぴく動く」のような意味はあるが、「燃え上がる」というような意味はない。それに、普通どう考えても<up and down>は一組だろう。これを二つに切って読む意味がよく分からない。

「私だ。どれくらい君につきあえばいいんだ?」も意見の分かれるところだ。原文は<Me. How much of it stays with you?>。双葉氏は「君といっしょにいたのは何名だ?」と訳している。村上氏は「私だよ。どれくらい記憶に残っている?」だ。<How much>は、テレビ番組に使われたので、日本では値段を聞く言葉のように思われているが、「どれくらい」という程度を表す言葉だ。問題は<stay with >の方だろう。普通<stay with somebody>は「(人と)離れずにいる」のような言い方で使うから、双葉氏の訳もわかる。

村上氏の大胆な意訳はどこから出てきたのだろう?調べてみると、<stay with someone>には「引き続き、[そのまま]〜の話を聞く」という意味がある。マーロウは、スターンウッド邸で一度、昨夜と今、ガイガーの家でカーメンに会っている。さだめし「どれくらい君につきあえばいいんだ」という気にもなるだろう。英語自体は実にシンプルな表現になっているが、文脈の中で使うわけで、いろいろな解釈が出てくる。どうとればいいのかは読者にまかせるしかない。

「鎌をかけてみただけだが、それを聞くと彼女は叫んだ」は<It was a stab in the dark but it got a yelp out of her.>。双葉氏はほぼ直訳で「暗やみに当てずっぽの一突きだったが、彼女は叫んだ」。村上氏は「あてずっぽうに言ってみただけだったが、彼女は甲高い叫び声を上げた」。<stab>は「刺す」だから、暗やみに向かって槍を突き出すイメージだろう。「鎌」をかける、という日本語に置き直してみたが、どうだろう。》