marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『闇夜にさまよう女』セルジュ・ブリュソロ

闇夜にさまよう女
冒頭、銃弾が頭を貫通した女が痛みを感じずに車を走らせる場面が出てくる。前頭葉前部を撃ち抜かれていても、そういうことが可能だという。車を降りてハリウッドの看板まで歩いて行った女はそこで倒れ、翌朝日本人観光客に発見されて病院に送られる。半年後、リハビリの甲斐あって女は言葉も話せるようになるが、記憶がすっぽり抜け落ちている。一時的な記憶喪失とはちがう。弾丸と手術のメスによって脳の一部が摘出されたからだ。その結果、女は人格さえ以前とは別のものになっていると医者は言う。

厄介なことに身分を証明する免許証その他を何も所持しておらず、着ていた服はどこでも買える量販品で、テレビで放送されたにもかかわらず彼女を知っているという関係者は現れなかった。身元不明の女につけられる名前、ジェーン・ドーとして女は過去と決別し、新しい人生を生きることになる、はずだった。ところが深夜の病室で何者かに殺されそうになり、担当医の計らいで、ビヴァリー・ヒルズの豪邸で暮らすことに。

記憶をなくした女が、記憶を取り戻すのでなく、新しい人格のもとに出直そうというのがめずらしい。普通なら何としてでももとの自分に戻りたいと思うはずだ。しかし、リセットがきくものなら、そうありたいと考える人間の方が実際は多いにちがいない。人生をはじめからゼロにしてやり直せるチャンスなど誰にもないに等しい。ところが、ジェーンに異変が起こる。完全に防犯管理されたはずの豪邸に、見えるはずのないインディアンの姿が見えたり、眠っているうちに夢遊病状態で変装したりする奇行が現れる。

ジェーンの訴えで担当医のクルーグは女性のボディガードをつけることにする。射撃の名手のサラだ。サラにはデイヴィッドという息子がいた。彼は先天性免疫疾患に冒されていて、菌に耐性がなく、サラの経営する警備会社の地下にある部屋に作られた無菌室から一歩も出ることなく、あらゆる情報を処理していた。クルーグがサラの援助をしていた関係でサラはジェーンの庇護者になる。四六時中一緒にいるうちに二人は互いをよく知るようになる。ジェーンは夢で見たことを少しずつサラに話す。それは信じられない話だった。

前頭葉被切断者は、なくした記憶を補填するため、後づけの記憶から偽の記憶を作り出すことがあるという。ジェーンのそれは、殺し屋だった。それもCIAに類した組織の依頼を受け、長期間ターゲットをつけねらい、最後には死に至らしめるというものだ。ジェーンの話を裏付けようと現地に赴いたサラは、話が事実であったことに驚く。担当医のクルーグはそれは本で読んだことを自分の記憶と勘違いしているだけだとサラをいましめるが、ジェーンの話は詳細で事実に合致している。サラは次第にジェーンの話を信じるようになる。

蘇った記憶が真実なのか、それとも精神科医の言うようにすべて虚言なのか、読者はその結果を知りたいと思い読み進める。次々と現れる新たな事実が、それまでの読みをひっくり返し、新たな読みを浮かび上がらせる。探偵役のサラと一緒に読者も翻弄されてしまう。この間のミスディレクションはなかなかよくできている。再読してみたが、かなり、誠実に事実がほのめかされていることがよく分かる。問題はSF的な設定と極端なまでに過酷な幼少期の記憶が事実を見抜くのを妨害しているのだ。

記憶に中のジェーンもサラも共に保護者の強権に屈し、従順にその保護者の望む通りの人生を送ってきている。見ようによっては完全に虐待されているのだ。そういう過去を共有する二人がともに行動するうちに、精神的に共振するようになってゆくのは理の必然と言っていい。サラの視点を通して、ジェーンの過去を判断していくしかない読者はそれに引きずられて事態を読んでゆくことを要求される。ある意味で、信頼できない語り手による話を聞かされているようなものだ。

話自体は非常に興味深く、若干強引なところや、SF的なギミックが気になるところもあるが、ヒッチコック映画を見ているようなサスペンスは鮮烈だ。誰が本当のことを言っているのか、ジェーンは本当は誰なのか、彼女の記憶は真正なものなのか、最後まで明らかにされないまま事態はどんどん悪化してゆく。最後の最後に明らかにされた真実にはあっと驚く仕掛けが用意されている。ミステリとエスピオナージ、それにほんの少しばかりSF的なスパイスを効かせた本作はアメリカを舞台にしているが書いたのはフランスの作家だ。

最近読んだ新聞の書評欄に「フランスでは1日2人が虐待で命を落とすが、「家庭内のしつけ」とタブー視され、社会的関心は低い」と書かれていて驚いた(『父の逸脱/ピアノレッスンという拷問』セリーヌ・ラファエル著)。「犬の虐待の方が関心が高いぐらい」だと著者は言う。そうした社会背景の上に成り立ってこの作品は書かれている。作家自身が精神障害を持つ母のせいで不遇な幼年時代を送ったらしい。皮肉なことだが、それが作品をリアルなものにしているのはまちがいない。何者にもなることなく老いを迎えた身には、しつけの名を借りて自分の願望を子に押しつけようとしなかった両親に感謝したくなった。