marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ふたつの人生』ウィリアム・トレヴァー

ふたつの人生 (ウィリアム・トレヴァー・コレクション)
アイルランドを舞台にした「ツルゲーネフを読む声」と、イタリアを舞台にした「ウンブリアのわたしの家」という中篇小説が二篇収められている。どちらも主人公が女性。『ふたつの人生』という書名は、この二人の人生を意味している。作者のウィリアム・トレヴァーは短篇小説の名手として知られている。短篇では、いろいろな人々の人生のある局面を鮮やかな手際ですくい取るその切り口と人間観察の鋭さにいつも感心させられるが、中篇には、また別の魅力がある。

かなり長い時間をかけて一人の人間の人生を追うことになるので、単調にならないように構成が工夫されている。「ツルゲーネフを読む声」では、小説内に二つの時間軸が設定されている。一つは、主人公に結婚話が舞い込むところから。もう一つは、それから四十年たって、施設で暮らしていた老嬢が、もと居た家に帰ることになり、夫が迎えに来るところから始まる。

読めば分かることなので明かしてしまうが、老嬢は主人公メアリー・ルイーズと同一人物。つまり二つの時間は過去と現在を表している。同時進行する二つの話を読み比べながら、読者はメアリー・ルイーズが何故、精神病院に入ることになったのか、その理由をまだ若かったころのメアリー・ルイーズの物語から探ろうとするにちがいない。それが、作家が読者という、長い小説に気乗り薄な馬に、先を急がせるために鼻先にぶら下げた人参である。

メアリー・ルイーズの夫エルマーは悪い人ではない。妻を愛しているし、勤勉でその暮らしぶりも質素である。ただ、かつての名家も今は落ち目。同居する二人の姉は未婚で跡継ぎが生まれなければ家は遠縁の手に渡ることになる。家柄にプライドを持つ姉たちは農家の娘との結婚を認めたがらず、事あるごとに嫁に辛くあたる。エルマーは二人の姉に頭が上がらず、充分に妻を守ってやれない。メアリー・ルイーズにとって店の休みの日曜日、自転車に乗って実家に帰ることだけが心の慰めだった。

結婚することは別の家族の一員になること。町で商売をする家と農場を営む家とは世界がちがう。新しい世界に受け入れられず、自らも溶け込むことができないメアリー・ルイーズが見つけた自分だけの世界というのが、いとこのロバートが朗読してくれたツルゲーネフの小説の世界だった。ようやく心が通じる相手を見つけたメアリー・ルイーズを更なる不幸が見舞う。もともと病弱だったロバートの早過ぎる死だ。

どんどん自分の世界に入り込んでゆくメアリー・ルイーズと、その隠された秘密を知ることのない周りの人々との間に目に見えない高い塀のような物が積み上げられていく。塀の内側にはメアリー・ルイーズの愛する物が集まり、聞こえて来るのはツルゲーネフの小説世界。人物の名はみなロシア風だ。塀の外では現実のアイルランドの生活が営まれる。小説の世界の中では主人公の奇矯な振舞いの理由を知る者はいない。ただ、読者は知っている。この登場人物は知らないが、読者は知っているというところがミソだ。

メアリー・ルイーズが創り上げた世界は完全な虚構の世界である。傷つきやすい柔らかな内部に入り込んだ異物を、分泌物で包むことで、自分が傷つかないような球状に作り上げてゆく真珠貝のように、メアリー・ルイーズは精神病院に入ることで自分一人の世界を守り続けた。そして、病院を出た後は、現実の世界の中にそれを位置づけようと策略を巡らし、それを成功させるはず。虚構の中に人間の真実を描き出すことにかけて、作家ほど長けた人はいない。メアリー・ルイーズという人格は小説家の隠喩かもしれない。

「ウンブリアのわたしの家」は、ロマンス小説の作家が主人公。ひと口には言えない人生を送ってきたエミリー・デラハンティは五十六歳でイタリアのウンブリアに家を買う。ホテルに泊まれない旅行者に宿を提供するペンションのようなものだ。そして、夜はロマンス小説を書いている。そのエミリーがミラノに出かけた帰り、列車内で爆弾テロに遭う。多くの死傷者が出た。彼女も怪我をしたが、幸いなことに助かった。ただ、書きかけていた小説は頓挫した。あれほどあふれ出ていた言葉が出なくなってしまったのだ。

彼女は同じ事件で傷ついた三人の客を自分の家に招待する。退役した将軍は妻と娘とその婚約者をなくした。オトマーというドイツ人の青年は片腕と恋人を失った。エイミーは両親と兄と言葉を失っていた。悲劇に見舞われた者同士が寄り添い、時間をかけて回復していこうと思ったのだ。そうした中、孤児となったエイミーの叔父というアメリカ人学者リバースミスがエミリーの家にやってくる。

ロマンス小説の作家である主人公は他人の感情や思考を読み取ることができると思い込んでいる。その過剰な思い入れは、他人の事情を勝手に作り上げてしまう。そんなエミリーとリバースミスの実務的な気性とが真っ向からぶつかって起こすちぐはぐさが尋常でない。視点はエミリーに寄り添っているので、ややもすれば、エミリーの語ることを信じたくなるのだが、どこまでが彼女の想像で、どこからが真実なのか読者には知ることができない。もしかするとすべてが妄想かもしれないのだ。

なにしろ、彼女の頭の中ではテロ事件を起こした、まだ見つからない犯人はオトマーで、時限爆弾は恋人がイスラエルに持ち込む荷物の中にあったことになっている。この「信頼できない語り手」という方法を最大限に生かすことで、この小説は成り立っている。主人公の作家の口を通じて、小説がどのように書かれるかが詳しく語られるのだから、これはもしかしたらウィリアム・トレヴァーの創作方法と重なるのかも、と思いかけて、いやいや、その手に乗るものか、と思い直した。なにしろ、語り手は妄想を膨らませる名人なのだ。

トレヴァーが亡くなったと聞いた時、ああ、これでもう作品が書かれることはないのだなとがっかりしたものだが、未訳の作品がまだあるらしく、同じ訳者によって準備されているという。新作が読めないのが残念だが、また読めるのはありがたい。これからも楽しみに待ちたい。