marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(1)

《階段を上りきると、また両開きのスイング・ドアが奥との間を仕切っていた。大男は親指で軽くドアを押し開け、我々は中に入った。細長い部屋で、あまり清潔とはいえず、特に明るくもなく、別に愉快なところでもなかった。部屋の隅にある円錐形の灯りが照らす、クラップス・テーブルを囲んで黒人のグループがぺちゃくちゃとしゃべっていた。右手の壁に沿ってバーがあった。そのほかには小さな丸テーブルがいくつか並べられていた。部屋には数人の客がいたが、男も女も黒人だった。クラップス・テーブルが急に静まりかえり、頭上の灯りが急に消えた。突然、浸水したボートのような重い沈黙がやってきた。いくつもの眼が我々を見た。灰色から漆黒の範囲内に収まる顔に嵌め込まれた栗色の眼だ。ゆっくり振り向いた眼はぎらつき、異人種が外敵に向けるとりつく島のない沈黙の奥から見つめていた。
 大柄で太い首をした黒人がバーの端に倚りかかっていた。シャツの両袖にピンクのガーターをつけ、広い背中でピンクと白のサスペンダーが交差していた。どこから見ても用心棒だった。男は上げていた片足をゆっくり下ろして我々を見つめ、静かに両脚を広げ、幅の広い舌を唇に這わせた。顔には虐待の痕があった。掘削機のバケット以外のあらゆるもので殴られたみたいだった。傷だらけで、ぺちゃんこになり、分厚く、まだらで、鞭の跡がついていた。怖いものなしの顔だった。人が思いつくすべてのことがやりつくされていた。
 短い縮れ毛には白いものが混じっていた。片耳の耳朶がなかった。
 黒人は重量級で肩幅も広かった。大きくてがっしりした両脚は少し湾曲していた。黒人には珍しいことだ。また唇をひと甞めし、微笑を浮かべ、体を動かした。ボクサーが体をほぐすみたいに身をかがめてこちらに向かってきた。大男は黙ってそれを待ち受けた。腕にピンク色のガーターをした黒人は、がっしりした褐色の手を大男の胸に置いた。大きな手だったが、飾りボタンのように見えた。大男は微動だにしなかった。用心棒は優しく微笑んだ。
「白人はお断りでね、ブラザー。黒人専用なんだ。すまないな」
 大男は小さな哀しい灰色の瞳を動かして部屋の中を見わたした。頬が少し赤らんだ。「黒人バーか」腹立たし気に、小さな声で言った。それから声を上げた。「ヴェルマはどこにいる?」と用心棒に訊いた。
 用心棒は笑ったわけではなかった。大男の服に見入っていたのだ。その茶色のシャツと黄色いタイ、ラフなグレイのジャケットについた白いゴルフボールを。ずんぐりした頭を注意深く動かしていろいろな角度から入念に吟味した。男は鰐革の靴を見下ろした。そして軽く含み笑いをした。おもしろがっているようだった。私は男のことがちょっと気の毒になった。男はまたおだやかに話しかけた。
「ヴェルマと言ったかね? ヴェルマなんて女はいねえ、ブラザー。酒もねえ、女もいねえ、何にもねえ。さっさと帰んな、白いの、出て行くんだ」
「ヴェルマはここで働いてたんだ」大男は言った。ほとんど夢見ているように話していた。たった一人で、森の中で菫でも摘んでいるように。私はハンカチを取り出して首の後ろを拭った。
 用心棒が突然笑い出した。「そうかい」彼は言った。肩越しにちらりと後ろを振り返って仲間を見た。「ヴェルマはここで働いてた、けどな、ヴェルマはここではもう働いてねえ。引退したってよ。あっはっは」
「その小汚い手をおれのシャツからどけるんだ」大男が言った。
 用心棒は眉をひそめた。そういう口の利き方に慣れていなかったのだ。手をシャツから放すと、拳を固めた。大きさといい色といい、大きな茄子そっくりだった。男には仕事があり、タフで通っていた。ここで男を下げるわけにはいかない。それがちらりと頭をよぎり、過失を犯した。いきなり肘が外に引かれ、拳はくっきりと小さな弧を描いて大男の顎の脇を打った。低いため息が部屋の中に流れた。
 いいパンチだった。肩が落ち、その後で体が揺れた。パンチには充分体重がのっていたし、それを見舞った男も多くの練習を積んでいた。大男は頭を一インチほど動かせただけだった。パンチを防ごうともしなかった。まともに食らって、わずかに体を震わせると、静かに喉を鳴らして用心棒の喉をつかんだ。
 用心棒は膝で相手の股間を蹴ろうとした。大男は用心棒を空中に持ち上げ、床を覆っている汚いリノリウムの上に派手な靴を滑らせ、両脚を開いた。用心棒をのけぞらせ、右手を用心棒のベルトに移した。ベルトはまるで肉屋の糸のようにはじけ飛んだ。大男は巨大な両手を用心棒の背骨にぴたりと当てて持ち上げた。大男は体を旋回させ、よろめきながら、両腕を振り回して部屋の向こうまで投げ飛ばした。三人の男がそれを避けて飛びのいた。用心棒は、デンバーまで聞こえたにちがいない派手な音を立てて、テーブルといっしょに幅木に衝突した。男の足は引きつっていた。それからずっと寝たままだった。
「いるんだよ」大男は言った。「タフになる時と場合をまちがうやつが」彼は私に向き直った。「なあ」彼は言った。「一杯つきあえよ」》

「また両開きのスイング・ドア」は<Two more swing doors>。清水氏は「また、二重ドアがあった」と訳している。どこにも<double>とは書いてないが、<two>で、そう思ってしまったのだろうか。当然、村上氏は「また両開きのスイング・ドア」と訳している。この場合の<two>は一対の意味だろう。<doors>と複数になっているので、<one more>とは書けないのだろうか。ちょっと首をひねってしまった。

「円錐形の灯りが照らすクラップス・テーブルを囲んで黒人のグループがぺちゃくちゃとしゃべっていた」は<a group of Negroes chanted and chattered in the cone of light over a crap table.>。清水氏は「黒人の一団が電灯の下で、骰子(さいころ)のテーブルをかこんでいた」と簡略に訳している。村上氏は「一群の黒人が集まって、クラップ・ゲームのテーブルを照らす円錐形の明かりの下で、歓声を上げたり、おしゃべりをしたりしていた」と、ほぼ逐語訳だ。二個の骰子を使って遊ぶゲームは、通常<craps>と呼ばれているので、クラップス・テーブルとしておいた。

「ゆっくり振り向いた眼はぎらつき、異人種が外敵に向けるとりつく島のない沈黙の奥から見つめていた」は<Heads turned slowly and the eyes in them glistened and stared in the dead alien silence of another race.>。清水氏は<Heads turned slowly>をカットし「その眼は、異人種の侵入に敵意を見せて、輝いていた」と訳している。村上氏は「首がゆっくりと曲げられ,、瞳がきらりと光り、こちらを凝視した。異なった人種に対する反感がもたらす、痛いほどの沈黙がそこにあった」と、相変わらず文学的な訳だ。

「掘削機のバケット以外の」は<but the bucket of a dragline>。清水氏はここをカット。そのまま訳しても読者には伝わらないと考えたのだろう。村上氏は拙訳と同じ。たしかに、こうしか訳しようがないし、訳してみても具体的なイメージは湧かない。ただ、とてつもない大きな機械であることは何とか分かる。それでいいのだ。チャンドラーお得意の修辞技法における単なる誇張法なのだから。

「大きな手だったが、飾りボタンのように見えた」は<Large as it was, the hand looked like a stud.>。清水氏は「形容ができないほどの大きな手だった」と訳しているが、これはどうだろう。村上氏は「それはずいぶん大きな手だったが、飾りボタンのようにしか見えなかった」と、解釈を入れて訳している。無論、カンマの後に「大男の胸に置かれると」という条件節が入っていると考えなければならない。村上氏の訳はそれを踏まえている。清水氏は<stud>を何かと読みちがえたのだろうか。

「小さな声で」は<under hi's breath>。清水氏は「低い声で」と訳している。村上氏は「はき捨てるように言った」と訳している。<under one's breath>は「小さな声で、ひそひそと、ささやいて」の意味。おそらく、辞書を引かずに訳したのだろう。その前に<angrily>とあるので、引きずられたのかもしれない。まちがいとは言えないが、慎重な村上氏にしては踏み込んだ訳である。その後、大男は声を上げているので、ここは小声と採っておくのが無難ではないか。

「用心棒は笑ったわけではなかった」は<The bouncer didn't quite laugh.>。清水氏は「用心棒はかたい表情を見せて」と訳している。村上氏は「用心棒はあからさまに笑ったわけではなかった」だ。<not quite>には「~ほどでもない」の意味なので、清水氏がなぜこういう表現にしたのか真意が分からない。「かたい表情」どころではない。ここで用心棒はかなり興味深そうな、ほとんど笑いに近い表情を浮かべているはずなのだ。何しろ大男の服装が眼を引くものだったから。

「ベルトはまるで肉屋の糸のようにはじけ飛んだ」は<The belt broke like a piece of butcher's string.>。清水氏は「金具は音をたてて、砕けた」と、ベルト本体ではなく金具がこわれたと訳している。村上氏は「ベルトはまるで肉屋の使う糸みたいにはじけて切れた」だ。<butcher's string>はロースト・ビーフを縛るタコ糸のようなもののことだと思う。

「大男は体を旋回させ、よろめきながら、両腕を振り回して部屋の向こうまで投げ飛ばした」は<He threw him clear across the room, spinning and staggering and flailing with his arms.>。清水氏はここを「用心棒はぐるぐるまわり、よろめき、両腕をふりまわしながら、部屋を横切ってとんでいった」と訳しているが、村上氏は「そして身体をくるりと回転させ、よろめきながらも、両腕を大きく振って、部屋の向こうまで相手を放り投げた」と訳している。

<spinning and staggering and flailing with his arms.>の<his>は大男なのか、用心棒なのか。原文では<He>の前に<;>(セミコロン)が使われている。つまり「独立した2つの文が何らかの関係があるためつなげて書くとき、間に(最初の文の終止符のかわりに)セミコロンを置く」という使われ方をしているわけだ。だから、ここで急に「彼」が用心棒になることは文法的に言ってあり得ない。それにしても二人の男がどちらも一文の中で一様に<he、his、him>で扱われるのは確かに厄介だ。それにしても、宙をとんでいく男が「よろめく」のはさすがに不可能ではないだろうか。