marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第四章(2)

《私は<フロリアンズ>で何が起きたか、それは何故かを話した。彼はまじめな顔で私を見つめ、禿げ頭を振った。
「サムの店も愉快で静かなところだったんだが」彼は言った。「ここ一月ほどは誰もナイフ沙汰など起こさなかったし」
「八年か少なくとも六年前、<フロリアンズ>が白人専用の店だった頃、何という名前だったんだ?」
「ネオンサインを変えるのは高い金がかかるんだよ、ブラザー」
 私はうなずいた。「同じ名前かも知れないと思ってた。もし名前が変わってたら、マロイが何か言っただろうし。誰がやってたんだ?」
「あんたにはちょっと驚かされるね、ブラザー。その気の毒な罪びとの名前はフロリアンさ。マイク・フロリアン──」
「それで、そのマイク・フロリアンに何が起きたんだ?」
 黒人はおだやかな褐色の手を広げた。よく通る声は悲しげだった。「死んだよ、ブラザー。主に召されたんだ。一九三四年のことだ。もしかしたら三五年かもしれない。はっきりしたことは分からない。荒んだ人生だったよ、ブラザー。聞いたところじゃ、大酒飲みで腎臓をやられたらしい。神を畏れぬ男は角を落とされた雄牛のようにばったり倒れるんだ、ブラザー。けれども、遥か高みでは神の慈悲が待っている」彼の声は事務的な高さに落とされた。「なぜかは知らないが」
「誰か家族はいないのか? もう一杯どうだ」
 彼はコルク栓を閉めた瓶をカウンター越しにきっぱりと押してよこした。「二杯で充分だよ、ブラザー。陽が沈む前はね。礼を言うよ。あんたの取り入り方には人の心の鎧を脱がせるところがある…かみさんがいたな。名前はジェシー
「その女はどうなったんだ?」
「知識の追求というのはな、ブラザー、多くの質問をすることだ。私は聞いていない。電話帳を試すんだな」
 ロビーの暗がりの隅に電話ブースがあった。私はそこに行き、灯りがつくところまでドアを閉めた。そして、使い古されてぼろぼろになった鎖つきの電話帳を調べた。フロリアンという名前は見つからなかった。私は机まで戻った。
「駄目だったよ」
 黒人はやれやれというように身をかがめ、市民名簿を持ち上げると机の上に置き、私のほうへ押した。そして両眼を閉じた。飽き飽きしたのだ。名簿にはジェシー・フロリアン寡婦、が載っていた。住所は西54番街1644。私は今までの人生で脳の代わりに何を使ってきたのだろう、といぶかった。
 私は紙切れに住所を書き写すと名簿を机の向こうに押しやった。黒人はあったところにそれを戻し、私に握手を求め、入ってきた時とまったく同じように机の上で両手を組み合わせた。その眼はゆっくり塞がれ、彼は眠りに落ちたように見えた。
 彼にとってこの一件は終わったのだ。半分ほど行ったところで私はちらりと振り返った。彼の両眼は閉じられ、呼吸はおだやかで規則正しかった。吐いたり吸ったりするたびに、最後の小さな息が唇から漏れた。禿げ頭が光っていた。
 私はホテル・サンスーシを出て、車に乗るため通りを横切った。簡単すぎるように思えた。あまりに簡単すぎるように思った。》

「私は<フロリアンズ>で何が起きたか、それは何故かを話した」は<I told him what had happened at Florian's and why.>。清水氏は「私はフロリアンのできごとを話して聞かせた」とあっさり訳し、<and why>を省略している。村上氏は「私は彼にフロリアンの店で起こったことを話し、その理由についても話した」と訳している。しかし、この時点ではまだ、店の主人の名が、フロリアンだということは知らされていないのに、何故ここだけ「フロリアンの店」としたのだろう。

「その気の毒な罪びとの名前はフロリアンさ」は< The name of that pore sinner was Florian.>。清水氏は「フロリアンという男さ」と<pore sinner>をカットしている。<pore>は<poor>。村上氏は「その哀れな罪人の名前はフロリアンっていうんだ」と訳している。

「聞いたところじゃ、大酒飲みで腎臓をやられたらしい。神を畏れぬ男は角を落とされた雄牛のようにばったり倒れるんだ」は<a case of pickled kidneys, I heard say. The ungodly man drops like a polled steer>。清水氏は「何でも肝臓がやられたということだったよ。神様を怖れない人間は、角を切られた鹿のように、ばったり往(い)っちまうもんだからね」と訳している。「腎臓」が「肝臓」に、「雄牛」が「鹿」に替わっている。その方がよく分かると考えたのだろうか。

村上氏は「腎臓がピックルス漬けみたいになっていたということだった。その神を敬わぬ男は、角を切られた雄牛のごとくがっくりと膝をついたんだよ」と訳している。腎臓がピクルスのようになるというのは、今一つ状態が想像できない。<pickled>には「塩(酢)漬け」のほかにもう一つ俗語で「酔っぱらって」という意味がある。<a case of>と前にあるので、「腎臓病で(死んだ)」という意味ではないのか。

「あんたの取り入り方には人の心の鎧を脱がせるところがある…」は<Your method of approach is soothin' to a man's dignity…>。清水氏は「あんたのように話がわかる人間は少ないね」と意訳している。<soothin'>は<soothing>。「なだめる、慰める、やわらげる」といった意味だ。村上氏は「人を尊重しつつ心を開かせる方法を、あんたは心得ておる」と訳している。

「知識の追求というのはな、ブラザー、多くの質問をすることだ」は<The pursuit of knowledge, brother, is the askin' of many questions.>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「知識を追求するということはだな、ブラザー、たくさんの質問をするってことだ」と訳している。男の言いたいことは何なのか、今一つよく分からない。あまりにも多く質問し過ぎだ、と言いたいのだろうか?

「灯りがつくところまでドアを閉めた」は<shut the door far enough to put the light on.>。清水氏はここもカット。村上氏は「照明がつくところまでドアを閉めた」と訳している、暗い場所であることは分かっている。電話ブースはドアを閉めると照明がつく仕組みになっているのかもしれない。

「黒人はやれやれというように身をかがめ」は<The Negro bent regretfully>。清水氏は「黒人は無言のまま」と訳している。<regretfully>は「残念そうに」の意味。「やれやれ」という訳語は村上氏が流行らせたということが翻訳について書かれた本に載っていた。もちろん、ここも村上氏は「その黒人はやれやれというように身をかがめ」と訳している。