marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第七章(2)

《ナルティは一息ついて私の言葉を待った。私には何も言うことはなかった。しばらくしてナルティはぶつぶつ話し続けた。
「あんたはこれをどう思うね?」
「何とも思わない。もちろんムースがそこへ行くのはありそうなことだ。フロリアン夫人とも顔見知りだったにちがいない。長居しないのは当たり前だ。警察がフロリアン夫人にいつ気づくかとびくついてたんだろう」
「思うに」ナルティは穏やかに言った。「たぶん俺が夫人に会って、どこに行ったか調べるべきなんだろうな」
「名案だ」私は言った。「もしあんたを椅子から持ち上げるやつがいればだが」
「なんと、また名文句ときたか。だが、今となってはそれはどうでもいい。わざわざ出向くには及ばないのさ」
「いいから」私は言った。「何があるのか聞かせろよ」
ナルティはくっくと笑った。「マロイは確保した。今度こそ本当だ。ジラードで見つけた。レンタカーで北に向かったんだ。給油したスタンドの若いのが確認した。そのちょっと前に放送で流した説明と一致していた。マロイがダーク・スーツに着替えてたことを除いてね。郡と州警察に連絡を取った。そのまま北に向かえばヴェンチュラのどこかで捕まる。リッジ・ルートにずらかればキャスティークの検問でひっかかる。突っ切ったりしたら道路封鎖を命じる。できるだけ銃撃戦は避けたいんだ。どうだい?」
「いいね」私は言った。「もしそれが本当にマロイで、あんたの予想通りに動いたらな」
 ナルティは慎重に咳払いをした。「そういうこと。で、念のために訊くが、あんたは何をしているんだ?」
「何もしていない。何かしてなきゃいけないのか?」
「あんたはフロリアン夫人となかなかうまくやったじゃないか。あの女、まだ何か知ってるかもしれない」
「中身の詰まった酒瓶を探せばいいだけのことだ」私は言った。
「あんたはあの女をうまく手なずけた。もうちょっと時間をかけた方がいいかもしれない」
「それは警察の仕事だと思うがね」
「それはそうだが、娘の線にこだわったのはあんたじゃないか」
「その線は切れたようだ──フロリアン夫人が嘘をついていなければ」
「女は何かにつけて嘘をつくものだ」ナルティはむっつりと言った。「あんた、本当に忙しいのか?」
「仕事をもらったところだ。君と別れてからすぐに。金になる話でね、悪いな」
「放り出すってのかい?」
「そんなつもりはない。ただ、食うために稼がねばならないだけさ」
「いいさ。あんたがそのつもりなら」
「つもりもくそもない」私は大声を上げそうになった。「私は君や他の警官の手先をやるつもりはない」
「分かった。勝手にするさ」ナルティはそう言って電話を切った。
 私は切れた受話器を握りしめ、それに怒鳴りつけた。
「この街には千七百五十人の警官がいる。なのに、そいつらは私に聞き込みをさせたがる」
 私は受話器を架台に置いてオフィス用のボトルからもう一杯飲んだ。
 しばらくして、私は夕刊を買いにロビーに降りた。少なくともナルティは一つだけ正しかった。これまでのところ、モンゴメリー殺しは広告ページにさえ載っていなかった。
 私は早めの夕食に間に合うよう、再びオフィスを後にした。》

ナルティがここで言っているのは<“What I figure,” Nulty said calmly, “Maybe I should go over and see her-kind of find out where she went to.”>。清水訳<「俺が女に会ってみよう」ナルティはいった。「どこへ行ったのか、しらべて来るよ」>。清水氏は<calmly>をカットしている。村上訳<「思うに」ナルティは静かに言った。「俺はそこに行ってフロリアン夫人に会うべきなんだろうね。彼女が出かけたさきを調べるために」>。

ナルティに腰を上げる気はない。だから「穏やかに」が使われているのだ。清水氏はナルティが本気でそう言っていると取ってカットしてしまったのだろう。<What I figure><Maybe I should>「思うのだが」「私はそうした方がいいのかもしれない」が読めていたら、ナルティに重い腰を上げる気などないことは分かりそうなものだが。

「なんと、また名文句ときたか。だが、今となってはそれはどうでもいい。わざわざ出向くには及ばないのさ」は<Huh? Oh, another nifty. It don't make a lot of difference any more now though. I guess I won't bother>。清水氏は「えっ? またからかうのかね。勝手にしろ。俺はもう、何とも思わんから……」と以前の会話に結び付けて訳している。

村上氏は「なんだって? ああ、また気の利いた台詞か。でもな、今となってはそんなことはもうどうでもよくなった。わざわざ出向くまでもないのさ」と訳している。<bother>には「わざわざ~する」という使い方がある。前に<I guess>とあるから、一つ前の自分の言ったことを打ち消していると読むべきだろう。

「ナルティは慎重に咳払いをした」は<Nulty cleared his throat carefully>。<clear throat>は「咳払いをする」ことだが、清水氏は「ナルティは声を改めて、いった」と訳している。村上氏は「ナルティは用心深く咳払いをした」だ。いい気分でしゃべっていたところをマーロウに釘を刺されて、体勢を立て直す必要に迫られたのだろう。