marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第二十一章(1)

《私はスターンウッド家には近寄らなかった。オフィスに引き返して回転椅子に座り、脚をぶらぶらさせる運動の遅れを取り戻そうとした。突然風が窓に吹きつけ、隣のホテルのオイルバーナーから出る煤が部屋の中に吹き下ろされて、空き地を転々とするタンブルウィードのように転げ回った。私は昼食を食べに出ようかと考え、人生はとんでもなく退屈だと考え、おそらく酒を飲んでも退屈さに変わりはないし、一日のこんな時間に一人で酒を飲んでもたいして面白くもない、とそんなことを考えていたときノリスから電話がかかってきた。持ち前の慎重さと礼儀正しさで、スターンウッド将軍の気分がすぐれず、読み聞かされた新聞のとある記事で、私の調査が完了したものと推測した、と告げた。
「ガイガーに関してはそうだ」私は言った。「私は彼を撃っていない、知ってのように」
「将軍もあなたとは考えておられません。ミスタ・マーロウ」
「将軍はミセス・リーガンが心配していた例の写真のことを知っているのか?」
「いいえ、まったくご存知ありません」
「将軍が私に何を渡したか知っているかい?」
「はい、存じております。三通の借用書と一枚の名刺だったと思います」
「その通り。それを返すよ。写真は破棄した方がいいと思う」
「それがよろしいかと存じます。ミセス・リーガンが昨夜何度も電話をおかけになられていたようですが──」
「外へ飲みに行ってたんだ」私は言った。
「はい、とても必要なことです、サー、そう思います。将軍があなたに五百ドルの小切手を送るようにとお命じになりました。それでご満足いただけますか?」
「たいへん気前のいいことだ」私は言った。
「そして、私どもはこの件に関して鍵がかけられたと考えてよろしいのでしょうか?」
「ああ、確かに。時限錠付きの地下金庫室みたいに厳重にね」
「ありがとうございます、サー。私ども一同感謝いたしております。将軍のご気分がもう少しよくなられたら──明日にでも──直接お礼を申しあげたいとのことです」
「結構だね」私は言った。「お伺いしてブランデーでも頂戴しよう。シャンパンも添えて」
「ちょうど飲み頃に冷えているか見ておきます」老人は作り笑いが聞こえる一歩手前の声で言った。
 それで終わり。私たちはさようならを言って電話を切った。窓から隣のコーヒー・ショップの匂いが煤といっしょに入り込んできたが、食欲を起こすところまではいかなかった。そんなわけで私はオフィス用のボトルを出してひと口飲り、自尊心には勝手にレースをやらせておいた。》

「三通の借用書と一枚の名刺だったと思います」は<Three notes and a card, I believe.>。前にも書いたことだが、この<a card>は名刺のことだ。双葉氏もそう訳している。ところが、村上氏はまた「三通の借用書と、一枚の葉書であると理解しておりますが」と、執事のノリスにまでまちがいを犯させている。ちなみに村上氏自身の文章を引いておく。「私は封筒から茶色の名刺と、ごわごわした三枚の便せんを取り出した」『大いなる眠り』(p.17)

「そして、私どもはこの件に関して鍵がかけられたと考えてよろしいのでしょうか?」は<AndI presume we may now consider the incident closed?>。<closed>は店の看板にあるのと同じ意味で閉店、或いは休業中の意味だ。それを「鍵がかけられた」と意訳したのは、次の「ああ、確かに。時限錠付きの地下金庫室みたいに厳重にね」というマーロウの言葉があるからだ。原文は<Oh, sure. Tight as a vault with a busted time lock.>。

双葉氏は「では、これでご依頼申し上げました件は落着といたしてよろしゅうございましょうか?」「モチ。時限錠付の保護金庫みたいにがっちりおしまいさ」と「おしまい」に「終い」と「蔵う」をかけている。村上氏は「そしてわたくしどもは、これで一件は終了(クローズ)したと考えてよろしいのでしょうか?」「もちろん。防犯時限ロックつきの金庫みたいに、しっかり閉鎖(クローズ)している」とルビを使っている。

「老人は作り笑いが聞こえる一歩手前の声で言った」は<the old boy said, almost with a smilk in his voice.>。双葉氏は「わが友は、くすくす笑いながら答えた」。村上氏は「と執事は言った。その声にはほとんど淡い笑みさえ浮かんでいた」。<smirk>だが辞書には「にやにや笑う、気取った[きざな]笑い方をする、いやになれなれしく笑う、作り笑いをする」という意味が並んでいて、あまり好感の持てる笑いではないような気がするのだが、両氏とも、あまりそれを気にはしていないようだ。

「食欲を起こすところまではいかなかった」は<but failed to make me hungry>。双葉氏は「私の空腹をさそうようにただよった」とし、村上氏は「それは残念ながら私の食欲を刺激してはくれなかった」としている。双葉氏の訳では、食欲が刺激されているように読める。問題はこの後の<So I got out my office bottle and took the drink and let my self-respect ride its own race.>にあるように思う。

双葉氏はそこを「私は机からびんをとりだし一杯ひっかけ、腹は減ってもひもじゅうないと見得をきった」と、いかにも時代がかった訳にしている。それというのも<let my self-respect ride its own race.>が何を意味しているのかよく分からないからではないだろうか。こういうとき、双葉氏は決まり文句に頼ることが多いからだ。村上氏も「自尊心には好きにレースを走らせておくことにした」と、ほぼ直訳ですませている。

何故、ここで唐突に自尊心が登場してくるのか?ノリスと電話で会話をする前にマーロウは酒を飲むかどうか、とつおいつ考えていた。マーロウの眼には回転草が回るように煤煙が吹き下りてくるのが見えていた。人生の味気なさに思いをいたしていたのだ。酒瓶に手を伸ばすかどうか躊躇していたともいえる。日も高いうちから酒を飲むことに内心の抵抗があるのはその口ぶりからも透けて見える。自尊心はそう簡単に酒に頼るべきではないと内なる声で囁き続けている。マーロウは、それを無視して酒瓶に手を伸ばし、一杯ひっかける。自尊心に「勝手に自分のレースでもやっているがいい」とうそぶいて。