《電話を切り、もう一度電話帳を取り上げてグレンダウアー・アパートメントを探した。管理人の番号を回した。もうひとつ死の約束の取りつけに、雨をついて車を疾走させているカニーノ氏の像がぼんやりと頭に浮かんだ。「グレンダウアー・アパートメント。シフです」
「ウォリスだ。警察の身元識別局。アグネス・ロズウェルという名の女に覚えがあるかね」
「何とおっしゃいました?」
私は繰り返した。
「番号をお教え願えれば、折り返し──」
「茶番はよせ」私は厳しく言った。「急いでいるんだ。あるのか、ないのか?」
「いいえ、ありません」声は棒状のパンのように硬かった。
「長身で金髪、目は緑だ。安宿で見た覚えはないか?」
「お言葉ですが、うちは安宿なんかでは──」
「黙るんだ」私は警官口調で怒鳴りつけた。「風紀犯罪取締班を送り込まれて徹底的に引っ掻き回されたいのか? バンカー・ヒル界隈のアパートメント・ハウスのことなら何から何まで知っているんだ。特に部屋別に電話番号が登録されているようなやつのことはな」
「ちょっと、落ち着いてくださいよ、お廻りさん。協力しますから。金髪なら確かに二人います。普通いるでしょう? 目の色までは覚えていません。その人、一人住まいですか?」
「一人か、一六〇センチくらいの小男といっしょだ。体重五十キロ、鋭い黒い目、服はダーク・グレイのダブル・ブレストのスーツ、アイリッシュ・ツイードのコート、グレイの帽子だ。情報じゃ部屋は三〇一のはずだが、電話に出たやつに盛大に揶揄われたよ」
「ああ、女はそこじゃない。三〇一には自動車のセールスマンが二人住んでいます」
「ありがとう。そのうちに行ってみよう」
「お手柔らかに願いますよ。直に私のところに来て頂ければ」
「感謝するよ、ミスタ・シフ」私は電話を切った。
顔の汗を拭いた。オフィスの隅まで歩いて壁に向かって立ち、片手で壁を叩いた。ゆっくり振り返り、椅子の上でしかめっ面をしている小さなハリー・ジョーンズを見やった。
「君はあいつに一泡吹かせたってわけだ、ハリー」私は自分でも奇妙に聞こえるほど大きな声を出した。「君は嘘をつき、小紳士然として青酸カリを仰いだ。君は猫いらずにやられた鼠みたいに死んだ。だがなハリー、私にとって君はただの鼠ではなかった」
私は死体を探った。嫌な仕事だ。ポケットの中からはアグネスについて私の欲しいものは何一つみつからなかった。そんなことだろうと思っていたが、やらずに済ますわけにはいかなかった。カニーノ氏が戻ってくるかもしれない。カニーノ氏は自信満々の紳士のようだ。犯行現場に舞い戻ることなど気にもしないだろう。
私は明かりを消し、ドアを開けかけた。壁際の床の上で電話のベルが激しく鳴り出した。私はその音に耳を澄ませ、顎の筋肉を痛いほどひきしめた。それから、もう一度ドアを閉め、明かりをつけ、そこまで行った。
「もしもし」
女の声だ。彼女の声。「ハリーいる?」
「ここにはいないよ、アグネス」
しばらく待って、それからゆっくり言った。「誰なの?」
「マーロウだよ、君にとっては厄介者さ」
「あの人、どこにいるの?」甲高い声。
「ある情報の見返りに二百ドル持って立ち寄った。申し出はまだ効力がある。金はここだ。君はどこにいる?」
「あの人、言わなかった?」
「聞いていない」
「あの人に訊く方がいいと思う。あの人はどこ?」
「それが訊けないんだ。カニーノという男を知ってるか?」
はっと息を呑むのがまるで傍にいるみたいにはっきり聞こえた。
「百ドル札二枚、ほしいのか、いらないのか?」
「私──私、喉から手が出るほど欲しいの、ミスタ」
「それじゃ、どこへ持っていくか言ってくれ」
「私──私──」声が次第に薄れていき、パニックが戻ってきた。「ハリーはどこ?」
「怖気づいて逃げたのさ。どこかで会おう──どこでもいい──金はあるんだ」
「そんなはずない──ハリーに限って。罠ね、これは」
「戯言だ。ハリーを逮捕するならとっくの昔にできた。罠をかける必要など何もない。カニーノがハリーのことを何か嗅ぎつけたみたいで逃げたのさ。私は安らかでいたい。君も安らかでいたい。ハリーも安らかでいたい」ハリーはもう安らかにしている。誰も彼からそれを奪うことはできない。「私のことをエディ・マーズの手先だと考えてるんじゃないだろうな、エンジェル?」
「い、いいえ、そんなふうには思ってない。半時間後に会いましょう。ウィルシャー大通りのブロックス百貨店の横、駐車場の東口で」
「いいだろう」私は言った。
受話器を戻した。アーモンド臭の波がまた押し寄せてきた。そこに吐瀉物の酸っぱい匂いが混じっていた。小さな死者は黙って椅子に腰かけていた。恐怖や変化から遠く離れて。
私はオフィスを出た。薄汚れた廊下には動くものもなかった。明かりの漏れる石目ガラスのドアもなかった。私は非常階段を使って二階まで降り、そこから明かりがついたエレベーターの屋根を見下ろした。ボタンを押すとそれはゆっくり動きはじめた。私は再び非常階段を駆け下りた。ビルディングを出る頃にはエレベーターは私の上にいた。
雨脚はまた激しくなっていた。土砂降りの中に踏み込むと大量の雨粒が顔を打った。一滴が舌に当たり、開けっ放しの口に気づいた。顎の脇の痛みから、顎を引いて大口を開けていたことを知った。ハリー・ジョーンズの死に顔に刻まれたしかめっ面の真似だった。》
「グレンダウアー・アパートメントを探した」のところ、両氏とも「グレンダ(ド)ワー・アパートメント」と訳しているが、原文は<looked up the Wentworth Apartments.>。つまり「ウェントワース・アパートメント」だ。これはチャンドラーのミスだろうか?「ウェントワース」は電話番号であって、アパートの名前ではない。参照しているのは1992年刊のBlack Lizard Editionだが、原作尊重でそのままにしているのだろうか。よく分からない。
「声は棒状のパンのように硬かった」は<The voice was stiff as a breadstick.>。双葉氏はここをカットしている。<breadsticks>はイタリア料理で、テーブル上に用意される鉛筆サイズの細くて硬い「グリッシーニ」のことだ。籠などにどっさり詰め込んで供されるため、普通は複数形である。そのままかじってもいいが、生ハムなどを巻いて食べるのも美味しいらしい。村上氏は「その声は棒パンのように硬かった」と訳している。
「普通いるでしょう?」は<Where isn’t there?>。双葉氏はここもカットしている。村上氏は「どこにだって金髪くらいいますぜ」と訳している。前の文が<There’s a couple of blondes here, sure.>だから、ここは一種の付加疑問文と考えればいい。双葉氏はそう考えて略したのかもしれない。
「電話に出たやつに盛大に揶揄われたよ」は<but all I get there is the big razzoo.>。双葉氏は「電話に出たのはデカ物だった」。村上氏は「しかし電話に出たのはいかにもでかい野郎だった」と、旧訳を参考にした訳だ。<razz>は「からかう、あざ笑う」の意味で<big razzoo>は「(米俗)大軽蔑の仕種」と辞書にある。どんな仕種かは分からないが、電話では見えない。それは両氏にも言えることで、電話で相手の背の高さは分からないはずだ。
「だがなハリー、私にとって君はただの鼠ではなかった」は<Harry, but you’re no rat to me.>。双葉氏は「だが、僕は君を鼠とは思わない」。村上氏は「しかしハリー、私から見れば君は鼠なんかじゃない」だ。<rat>は家ネズミの<mouse>とちがって、ドブネズミ。そのため人に対して使われるときは「スパイ、密告者、裏切り者」といったよくない意味が加わる。マーロウのハリーに対する親愛の情を表すところなので、ネズミを使った人を表す表現として「ただの鼠で(は)ない」(尋常の人物ではない、一癖ある者だ、油断のならないやつだ)を使ってみた。
「カニーノ氏は自信満々の紳士のようだ。犯行現場に舞い戻ることなど気にもしないだろう」は<Mr.Canino would be the kind of self-confident gentleman who would not mind returning to the scene of his crime.>。双葉氏は「キャニノ君は犯罪の現場へ帰ってくるのを何とも思っていないような自信たっぷりな紳士だ」と、関係代名詞を教科書通り後ろから訳し上げている。村上氏は「カニーノ氏は自信満々の男だ。犯行現場に戻ることを怖がったりしないだろう」と、こちらは文芸翻訳でよくやるように訳し下ろしている。
「壁際の床の上で」は<down on the baseboard>。ここも双葉氏はカットしている。村上氏は「床の幅木の前に置いた」と、丁寧に訳している。<baseboard>は壁の下に張りまわした「幅木」のこと。原文は<The phone bell rang jarringly down on the baseboard.>。この場合の<down>は「低い状態にある」ことを表す副詞だろう。わざわざ幅木に注目させる必要があるとも思えない。幅木のあるのは壁なので「壁際の床の上で」としてみた。
「もしもし」は<Yeah?>。ここを双葉氏は「おう」と訳している。マーロウの発した言葉と考えているのだろう。しかし、すぐ後に<A woman’s voice. Her voice.>と続くので、これはアグネスの発した言葉と取らないと意味が通じない。そのためか、双葉氏は語順を入れ替えて「ハリーいて?」の後に「女の声だ。彼女の声だ」を入れている。しかし、これはさすがにまずいだろう。
「はっと息を呑むのがまるで傍にいるみたいにはっきり聞こえた」は<Her gasp came as clearly as though she had been beside me.>。双葉氏は「彼女がはげしく息をひくのが、まるですぐそばにいるみたいにはっきりきこえた」と訳している。一般に「息をひく」という言い方があるのかどうかよく分からないが、あとは原文通り。村上氏は「彼女がはっと息を呑む音がすぐ耳元で聞こえた」と訳している。直喩をあえて無視しているのは何か理由があるのだろうか。
「私は安らかでいたい」は<I want quiet>。双葉氏は「僕も落ち着きたい」。村上氏は「私は静かにやりたい」と訳している。これはいつもの繰り返しである。私、君、ハリーと三度同じ言葉を繰り返して<Harry already had it.>(ハリーはもう安らかにしている)つまり永眠している、というところへ落としたい訳だ。<quiet>をどう訳すかがカギになる。
「土砂降りの中に踏み込むと大量の雨粒が顔を打った」は<I walked into it with the heavy drops slapping my face.>。双葉氏は「雨滴でつよく顔をたたかれながら、私はそのどしゃ降りの中へ出て行った」と、やはり訳し上げている。村上氏は「外に出ると、重い雨粒が顔を強く打った」と訳している。「重い雨粒」は変だろう。<heavy>には「(量、程度などが)激しい、猛烈な」という意味で使われる場合がある。その前に<It was raining hard again.>とあり、引用句の後に<one of them>とあるのだから、この<heavy>は「重い」と訳すべきではない。蛇足ながら、両氏とも<walked into>を「出て行った」、「外に出る」と訳しているが、マーロウは土砂降り「の中に入る」のであって、建物から「出る」のではない。一人称視点であることを忘れているのではないか。