marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第二十八章(3)

《女はさっと身をひるがえし、スタンド脇の椅子に戻って座ると、両掌の上に顔を伏せた。私は勢いよく足を床につけて立ち上がった。ふらついた。足が固まっている。顔の左側面の神経が痙攣していた。一歩踏み出した。まだ歩けた。必要があれば走ることもできそうだ。
「逃げろという意味か」私は言った。
 女は顔を上げずに頷いた。
「君も一緒に行った方がいい──もし生きていたいなら」
「ぐずぐずしないで。今すぐにでも帰ってくるから」
「煙草に火をつけてくれないか」
 私は隣に立って、その膝を触った。急に立ち上がった女はぐらついた。目と目が合った。
「やあ、シルバー・ウィグ」私は優しく言った。
 女は後退りして椅子を回り込み、煙草の箱をテーブルの上からすくい取った。一本振り出して私の口に乱暴に突っ込んだ。手が震えていた。小さな緑色の革張りのライターに火をつけ、煙草に近づけた。私は煙を吸い込み、湖のような碧い目に見入った。女がまだ傍にいるうちに私は言った。
「ハリー・ジョーンズという名の誰かさん(リトル・バード)がここを教えてくれたんだ。そいつはあちこちのカクテル・バーに出入りしては屑どもに代わって競馬の掛け金集めに飛び回っていた。ついでに情報も。その小鳥がカニーノについてあることを思いついた。そんなこんなでそいつと連れが君の居所をつかんだのさ。そいつは私に情報を売りに来た──どうやって知ったかについては長い話になるが──私がスターンウッド将軍に雇われていることを知ってたんだ。私は情報を手に入れたが、カニーノは小鳥を手に入れた。今となっては死んだ小鳥だ。羽は逆立ち、頸はうなだれ、嘴には血の滴がついている。カニーノが殺したんだ。しかし、エディ・マーズはそんなことはしない。そうだろう、シルバー・ウィグ? あいつは決して誰も殺さない。誰かを雇ってやらせるだけだ」
「出て行って」女は荒々しく言った。「早くここから出て行って」
 手は中空で緑色のライターを握っていた。指に力が入って、拳は雪のように白かった。
「しかし、カニーノは私が知ってるとは思ってもいない」私は言った。「小鳥殺しのことさ。私がただ嗅ぎまわってると思い込んでいる」
 女は笑った。身もだえするような笑いだった。風に揺さぶられる木のように体が揺れていた。必ずしも驚きだけではなく、中に困惑が入っているように思われた。まるで新しい考えが、前から知ってたことに付け加わえられたが、おさまりが悪いとでもいうような。それから、一度きりの笑いから抜き出す意味にしては、多すぎると思った。
「とてもおかしい」女は息を切らして言った。「とてもおかしい。だって──私はまだあの人を愛してるんだから。女というものは──」女はまた笑い始めた。
 私は耳を澄ませた。頭がずきずきした。まだ雨の音がしているだけだった。
「行こう」私は言った。「早く」
 女は二歩後ろに下がり、険しい顔になった。「出て行って! 早く出て行って! リアリトまでなら歩いていける。上手くやって──口はきかないこと──少なくとも一、二時間は。それくらいのことはしてもいいでしょう」
「行こう」私は言った「銃は持ってるのか、シルバー・ウィグ?」
「私が行かないことは知ってるでしょう。お願いだから早くここから出て行って」
 私は彼女に近づいた。ほとんど体を押しつけるところまで。
「私を逃がした後もここに残ろうというのか? 殺し屋が帰ってくるのを待って、ごめんなさいと言えるのか? 蠅を叩くみたいに人を殺すやつだぞ。たくさんだ。私と一緒に行こう、シルバー・ウィグ」
「いいえ」
「もしもだ」私は力なく言った。「君のハンサムな旦那がリーガンを殺したとしよう。あるいは、エディの知らないうちにカニーノがやったとしよう。考えてもみろ。私を逃がした後、君がどれだけ生きられると思う?」
カニーノなんか怖くない。私はまだあの男のボスの妻」
「エディなんか一握りのおかゆさ」私は怒鳴った。「カニーノならティースプーンで平らげる。猫がカナリアを襲うみたいにやつを片付ける。一握りのかゆだ。君みたいな娘が悪い男に夢中になるとき、きまって相手は一握りのおかゆなんだ」
「出て行って!」彼女はほとんど吐き出すように言った。
「いいだろう」私は女から顔を背け半開きのドアを抜け暗い廊下に出た。それから女は急いで追いかけてきて私を押しのけ、玄関扉を開けた。外の濡れた暗闇をじっと見つめ、耳を澄ませ、身ぶりで私に出てくるように合図した。
「さようなら」彼女は小声で言った。「いろいろと頑張って。でも一つだけ言っておく。エディはラスティ・リーガンを殺していない。噂に反して元気な姿をあなたはどこかで見つけることになる。あの人が姿を見せたいと思ったときに」
 私は体を前に傾け、女を壁に押しつけた。女の顔に口をつけ、そのまま話しかけた。
「急ぐことはないさ。すべて前もって手配されてたことだ。細部に至るまでリハーサル済みさ。ラジオ番組のように秒刻みでね。急ぐことはない。キスしてくれ、シルバー・ウィグ」
 女の顔は私の口の下で氷のようだった。女は両手で私の頭を持ち、唇に強くキスした。唇も氷のようだった。
 私がドアを通って外に出ると、それは私の背後で音もなく閉じた。雨がポーチの下に吹き込んできたが、彼女の唇よりは冷たくなかった。》

「ハリー・ジョーンズという名の誰かさん(リトル・バード)がここを教えてくれたんだ」は<A littlr bird named Harry Jones led me to you.>。この<a littlr bird>はニュースの出所を示す「誰かさん、ある筋」の意味で使う言葉。くり返して<littlr bird>を使うことで、ハリーが小鳥のように動いて死んだように表現している。「誰かさん」だけでは訳がついていけなくなる。

双葉氏は「ハリー・ジョーンズという奴がここを教えてくれたんだ」と、小鳥を使わずに訳しているが、後の方では「キャニノがこのかも(傍点二字)をつかまえた。もうしんじまったかも(傍点二字)だがね」と訳している。鴨を小鳥というのはちょっと苦しい。そのせいか「羽は逆立ち、頸はうなだれ、嘴には血の滴がついている」の部分はカットしている。

村上氏は「ハリー・ジョーンズという小鳥くん(リトル・バード)がここに導いてくれたんだ」と訳している。もしかしたら、村上氏は<littlr bird>に、前述の意味があることを知らなかったのではないだろうか。すべてを「小鳥くん」で通しているのは、マーロウがハリーにつけた愛称と勘違いしているのかもしれない。でなければ「彼は今では死んだ小鳥くんになっている」などという訳にはならないだろう。

「それくらいのことはしてもいいでしょう」は<You owe me that much.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「それくらいの頼みはきっと聞いてくれるわよね」と訳している。

「それから女は急いで追いかけてきて私を押しのけ、玄関扉を開けた」は<Then she rushed after me and pushed past to the front door and opened it.>。双葉氏は「と、彼女が背後から追って来て私のそばを走りぬけ、表玄関のドアをあけた」と訳している。村上氏は「彼女が背後から駆けてきて、玄関まで私を押すように導き、ドアを開けた」と訳している。

お分かりだろうか。村上氏の訳だけ、マーロウと女の位置関係がちがうことに。これは<push past>が「押しのける」という意味を持つことが分かっていないからだろう。マーロウが自らドアを開けるのは危険だと思ったから自分が先に立ったのだ。「押すように導き」では、女がどこでマーロウを追い抜いたのかが分からない。

「噂に反して元気な姿をあなたはどこかで見つけることになる。あの人が姿を見せたいと思ったときに」は<You’ll find him alive and well somewhere, when he wants to be found. >。双葉氏は「そのうちきっとどこかで生きているのがみつかるわ」と、後半部分をカットしている。村上氏は「あなたは五体満足な彼をどこかで見つけることになる。見つけられてもいいと、彼が自ら思ったときにね」と訳している。

ところで、<alive and well >には「(現存しなくなったはずのものが)生き残っていて、健在で」という意味があるのだが、両氏の訳からはそれが伝わってこない。たぶん成句だとは考えなかったのだろう。そういえば、西部劇のお尋ね者のポスターに<Dead or alive>という決まり文句があったのを思い出した。