marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第二十九章(1)

《隣の修理工場は暗かった。私は砂利敷きの車寄せと水浸しの芝生を渡った。道には小川のように水が流れていた。向こう側の溝に水が音を立てて流れ込んでいる。帽子はかぶっていなかった。きっと修理工場で落としたのだ。カニーノはわざわざ返す手間はかけなかった。私が必要としているとは思わなかったんだろう。痩せて不機嫌なアートと盗難車らしきセダンを安全な場所に残し、雨中、ひとり颯爽と引き返すカニーノのことを思い描いた。女は愛するエディ・マーズを守るために身を潜めている。従ってカニーノが帰って来たとき、女はおとなしくスタンドのそばにグラスに入った酒といて、私はダヴェンポートの上に縛られているはずだ。それから女の身の回りの物を車に運び、罪になるような証拠が残っていないか家の中を念入りに調べるだろう。女には外の車で待つように言う。女は銃声を聞かない。至近距離ならブラックジャックが効果的だ。縛って残してきたから、しばらくしたら解いて逃げるだろうと言い聞かせる。女は気がつかないと思ってるのだろう。さすが、カニーノ氏。
 コートの前が開いているが、手錠のせいでボタンが掛けられない。裾が足の所で大きな疲れた鳥の翼のようにはためいた。ハイウェイに出た。大きな水飛沫の渦をヘッドライトで照らしながら車が通り過ぎた。引き裂くようなタイヤの悲鳴はすぐに消えた。私のコンバーチブルはもとの場所にあった。二本のタイヤは修理され、装着済みだった。必要とあればいつでも走れるようになっている。すべて考えられていた。私は中に入り、ハンドルの下に横向きに潜りこみ、物入れの革の蓋を手探りで外した。もう一挺の銃をコートの下に突っ込み、引き返した。世界は狭く、閉ざされ、暗かった。カニーノと私のためだけにある世界だ。
 半分ほど行ったところで危うくヘッドライトが私をとらえそうになった。車がハイウェイから素早く脇道に入った。私は斜面を滑り降り、水で溢れる溝の中に飛び込み、水の中に息を吐いた。車は減速せず音立てて通り過ぎた。私は頭を上げ、耳を澄ませた。車が道路を離れ、車寄せの砂利を軋ませるタイヤの音が聞こえた。エンジンが止まり、ライトが消え、ドアがバタンと閉まった。家のドアが閉まる音は聞こえなかったが、縁に漏れる光が木の間隠れに見えた。窓のブラインドを動かすか、玄関ホールに明かりをつけでもしたかのように。
 私は水浸しの芝生に戻り、泥水を跳ね飛ばしながら歩いた。車は私と家の間にあった。銃は脇の下に左腕が付け根から抜けない程度に体に引きつけていた。車は暗く、空っぽで、まだ暖かかった。ラジエターの中で水が楽しそうにごぼごぼ鳴った。ドアからのぞき込むとダッシュボードにキーがついていた。カニーノはたいへんな自信家だ。私は車を回って注意深く砂利道を横切り窓まで歩き耳を澄ませた。ひっきりなしに落ちる雨粒が雨樋の底の金属継ぎ手に当たるボンボンという音のほかに、誰の声も物音も聞こえなかった。
 私は耳を澄ませて待った。大きな声は聞こえず、静かで落ち着き払っていた。カニーノはあの唸るような声で話し、女は私を逃がし、逃亡の邪魔はしないと私に約束させたことを話しているだろう。カニーノは私を信じないだろう、私がカニーノを信じないように。長居はしないはずだ。女を連れてどこかへ行くにちがいない。やるべきことは出てくるのを待つことだった。
 それができなかった。私は銃を左手に持ち替え、しゃがんで砂利をひとつかみすくい取り、窓の網戸に向かって投げた。弱弱しい努力だった。ほんの少し網戸の上のガラスに届いただけだったが、それがダムが決壊するときのような音を立てた。
 私は車まで駆け戻り、裏側のステップに乗った。家の灯りはとっくに消えていた。それっきりだった。私はステップの上で待った。無駄だった。カニーノは慎重すぎる。
 私は立ちあがり、後ろ向きに車に乗り込むと、手探りでイグニッション・キーを探り当て、それを回した。足を伸ばしたが、スターター・ボタンはダッシュボードの上にあるにちがいない。ようやく見つけ、それを引くと、スターターが軋み音を立てた。まだ暖かかったエンジンはすぐにかかった。満足そうに柔らかなエンジン音を奏でた。私は車から出てもう一度後輪のところにかがみ込んだ。
 私は今では震えていた。が、今の音がカニーノの気に入らないことを知っていた。車がなくては困るからだ。明りの消えた窓がじりじりと下がるのが、ガラスに映るわずかな光の動きで分かった。不意に炎が噴き出し、間を置かず三発の銃声が混じりあった。コンバーチブルのガラスが割れた。私は苦悶の叫びをあげた。その叫びはうめき声に、うめき声は血が塞き上げた喉の咽ぶ音に代わった。私はうんざりするほどむせぶ音を弱らせ、最後に喉を喘がせた。いい仕事だった。私は気に入った。カニーノはたいそう気に入ったようだ。大きな笑い声がした。大きな轟くような笑いだった。いつもの喉を鳴らすような話し声とは少しも似ていなかった。》

「道には小川のように水が流れていた」は<The road ran with small rivulets of water.>。双葉氏は「道は雨で小川みたいになっていた」。村上氏は「道路に沿って小川のような流れができていた。(道路の反対側の溝を、それは盛大に音を立てながら流れていた)」と訳している。括弧の部分は<It gurgled down a ditch on the far side.>。続けて読めば、村上氏が道路の反対側の側溝に水が流れていると考えていることが分かる。

しかし、そうではない。水は道の上を流れているのだ。辞書にも「〔+with+(代)名詞〕〈場所に〉〔液体などが〕流れる」<The floor was running with blood. 床には血が流れていた>という例文もある。道路に収まりきらない「水は向こう側の溝へ音立てて流れ込んでいた」(双葉訳)のだ。

「従ってカニーノが帰って来たとき、女はおとなしくスタンドのそばにグラスに入った酒といて、私はダヴェンポートの上に縛られているはずだ」は<So he would find her there when he came back, calm beside the light and the untasted drink, and me tied up on the davenport.>。双葉氏は「キャニノは、帰って来て、電気スタンドのそばで静かに飲物を味わっている彼女と、長椅子にしばられている私を見る」と訳しているが、<untasted>なのだから「味わう」ことは不可能だ。

村上氏は「だから自分が戻ったときにも彼女は、手をつけていない酒のグラスと共に、まだおとなしくフロアスタンドの隣にいるはずだ、とカニーノは考える。そしてソファの上には私がしっかり縛り上げられている」と訳している。「とカニーノは考える」は原文にはない。村上氏は原文を噛みくだくことはあるが、基本的には原文をいじることはしない。ここは原文通りに訳すと日本語として不自然になると考えたのだろうか。

「いつもの喉を鳴らすような話し声とは少しも似ていなかった」は<not at all like the purr of his speaking voice.>。第二十九章ではここまでのところ、比較的に原文に忠実だった双葉氏だが、この部分はカットしている。村上氏は「喉の奥で鳴るようないつものもぐもぐしたしゃべり方とは似ても似つかない」と訳している。<speaking voice>が指している<purr >とは「もぐもぐしたしゃべり方」ではなく「喉の奥で鳴るような」声の方ではないのだろうか。