marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第二十九章(2)

《しばらく沈黙が下りた。聞こえるのは雨と静かに響くエンジン音だけだった。それから家のドアがゆっくり開き、闇夜の中により深い闇ができた。人影が用心深く現れた。首の周りが白い。服の襟だ。女がポーチに出てきた。体を強張らせて、木彫りの女のようだ。銀色の鬘が青白く光っている。カニーノは念入りに女の後ろから腰をかがめて出て来た。その様子が必死過ぎて吹き出してしまうところだった。
 女は階段を下りてきた。その顔が白くこわばっているのが見えた。車の方に歩きはじめた。私がまだ目に唾を吐けるかもしれないと用心してカニーノが盾にしているのだ。雨音をついて話し声が聞こえてきた。ゆっくりとした話しぶりで、声はまったく調子というものを欠いていた。「何も見えない、ラッシュ、ガラスが曇ってる」
 カニーノが何かぶつぶつ言い、女は体をぴくんとさせた。まるで背中に銃を押しつけられたように。女はまた前に進み、明かりの消えた車に近づいた。その後ろに今はカニーノが見えた。帽子と横顔、広い肩が。女が凍りついたように立ち止まり、叫んだ。美しい薄衣を裂くような悲鳴は私を揺さぶった。まるで左フックを喰らったみたいに。
「見える!」彼女は叫んだ。「ガラス越しに、ハンドルの向こう側、ラッシュ!」
 カニーノはそれに飛びついた。女を荒っぽく脇に突き飛ばし、銃を構えて前に飛び出した。また三発、炎が暗闇を切り裂いた。ガラスの弾痕がまた増えた。銃弾が一発、車を突き抜け、私のそばの木にぶつかった。跳弾が遠くで唸った。それでも、エンジンは変わりなく動き続けていた。
 男は闇を背に、這うように身を低くした。形のない灰色の顔が、銃撃でぎらついた後ゆっくりもとに戻っていくかのようだった。もし手にしているのがリヴォルヴァーなら弾倉は空かもしれず、ちがうかもしれない。六発撃っていた。が、家の中で装填したかもしれない。それなら好都合だ。弾のない銃を手にした相手と撃ち合いたくない。ただ、オートマティックということもある。
 私は言った。「終わったのか?」
 カニーノはさっと振り向いた。たぶん古き良き時代の紳士なら、相手があと一発か二発撃つのを待っただろう。が、銃はまだこちらを狙っていて、長くは待てなかった。古き良き時代の紳士になるには時間が足りなかった。私は四発撃った。コルトは肋骨に食い込んだ。まるで蹴られたかのように男の手から銃が飛び出した。カニーノは両手で腹を押さえていた。私は銃弾が体にまともに当たる音を聞いていた。彼は大きな両手で自分を抱くようにして真っ直ぐ前に倒れた。濡れた砂利の上に顔から落ちた。その後は何も聞こえなかった。
 銀色の鬘の女も何も言わなかった。纏わりつく雨の中、固まったように突っ立っていた。私はカニーノの方に歩いて行き、当てもなく銃を蹴った。それからさらに歩いて横に身をよじって銃を拾い上げた。それが私を女に近づかせることになった。女は憂鬱そうに語りかけた。まるで独り言でも言うように。
「私──私、心配してた。あなたが戻ってくるんじゃないかと」
 私は言った。「デートだよ。言ったはずだ、すべて台本通りだと」私は気が狂ったように笑い出した。
 それから女はカニーノの上に身をかがめ、体に触れた。少しして立ち上がった時、手には細い鎖のついた小さな鍵があった。
 彼女は苦々しく言った。「殺す必要があった?」
 私は始めたのと同じくらい突然に笑うのをやめた。女は私の背中に回って手錠を外した。
「そうね」彼女は優しく言った。「あなたはそうしなければならなかった」》

カニーノは念入りに女の後ろから腰をかがめて出て来た」は<Canino came crouched methodically behind her.>。双葉氏は「キャニノはぴたりと彼女の背後について、彼女が歩くとおりに歩いた」と訳しているが、これでは<crouch>が訳せていない。村上氏は「彼女の背後からカニーノが、いかにも念入りに身を伏せてやってきた」と訳している。

「その様子が必死過ぎて吹き出してしまうところだった」は<It was so deadly it was almost funny.>。簡単な文だが、<deadly>が曲者だ。双葉氏は「あまり不気味なのがかえってこっけいだった」と訳している。村上氏は「その様子があまりにも真剣だったので、見ていて吹き出したくなるほどだった」としている。それまで、マーロウはカニーノに圧倒されていた。しかし、カニーノも人の子、ということがここで分かる。ここから一気に攻勢に転じるのだ。「不気味」と訳してはまずいだろう。

「私がまだ目に唾を吐けるかもしれないと用心して」は<in case I could still spit in his eye.>。双葉氏はここをカットしている。<in case>は「〜の場合の用心に、〜するといけないから」の意味。村上氏は「まだ私が健在で、彼の目に唾を吐きかけるかもしれないので」と訳している。女を盾にとる時点で、カニーノという男の値打ちが下がっている。

「銃弾が一発、車を突き抜け、私のそばの木にぶつかった。跳弾が遠くで唸った」は<One bullet went on through and smacked into a tree on my side. A ricochet whined off into the distance.>。双葉氏は「弾丸の一発は私のそばの立木にぶっつかった」と二つ目の文をカットしている。村上氏は「一発の弾丸は車を突き抜け、私のそばの樹木にめり込んだ。跳弾が遠くで唸りを立てた」と訳している。

三発のうちの一発<one bullet>だけが車の外に飛んできたのだ。村上氏の訳では、その一発は樹木にめり込んでいるはず。それでは遠くで唸りを立てた「跳弾」は誰が撃った弾だろう?問題は、村上氏がおそらく辞書など引かずに<into>を「(外から)〜の中に(入り込んで)」という通常の意味に解釈したことにある。しかし、辞書には衝突を表す「ぶつかる」という意味がちゃんと記されている。そう解釈しないと<ricochet>という、石の「水切り」や、跳ね返った弾を表す「跳弾」が、どこから出てきたのかが分からなくなる。

「私は銃弾が体にまともに当たる音を聞いていた」は<I could hear them smack hard against his body.>。双葉氏はここもカット。村上氏は「銃弾が彼の身体にきつくめり込む音を耳にすることができた」と訳している。「身体にきつくめり込む音」という訳はどうだろうか。<smack>には「強く叩く」という意味はあっても「めり込む」という意味はない。ひとつ前の<smacked into>を「めり込んだ」と訳したのを引きずっているのではないだろうか。

双葉氏がカットした部分を村上氏が復元していることは高く評価しているが、双葉氏の訳していないところで、村上氏の勇み足が目立つような気がする。双葉氏が訳していないのは、これが正解というぴったりくる訳が見つからず、それでいて、カットしても不都合にならない箇所であることが多い。もともと新訳は旧訳に負うところが多いものだ。それだけに、旧訳にない部分はよほど気を引き締めて訳す必要がある。