marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第三十章(2)

《グレゴリー警部はため息をついてねずみ色の髪をくしゃくしゃにした。
「もう一つ言っておきたいことがある」彼はほぼ穏やかと言っていい声で言った。
「君はいい男のようだ。だが、やり方が荒っぽ過ぎる。もし本当にスターンウッド家を助けたいと思っているのなら──放っておくことだ」
「その通りだろうな、警部」
「どんな気分だ?」
「最高だ」私は言った。「ほとんど一晩中、怒鳴られるためにあちこち引き回されていた。その前は濡れ鼠になって叩きのめされたんだ。体調は完璧だ」
「一体全体、何を期待していたんだ、君は?」
「他には何も」私は立ったまま、にやりと笑い、ドアのほうに歩きはじめた。あと一歩というところで、突然咳払いが聞こえ、厳しい声が飛んだ。「聞く耳は持たない、というわけか。君はまだリーガンを見つけられると思っているのか?」
私は振り返ってその目をまっすぐ見据えた。
「いや、リーガンを見つけられるとは思っていない。探すつもりもない。それでいいんだろう?」
 警部はゆっくり頷いた。それから肩をすくめた。「何でそんなことを言ったのかまったくもって分からない。幸運を祈る、マーロウ。いつでも寄ってくれ」
「ありがとう、警部」
 私は市庁舎を出て駐車場から車を出し、ホバート・アームズの自宅に帰った。コートを脱いでベッドに横になり、天井を見つめ、通りを行き交う車の音を聞きながら、太陽がゆっくり天井の隅を横切るのを見つめた。眠ろうとしたが眠れなかった。起きて、そぐわない時間だが一杯飲み、また横になった。それでもまだ眠れなかった。頭が時計のようにチクタク鳴った。ベッドに座り直し、パイプに煙草を詰めながら大声を出した。
「あの爺、何かつかんでるな」
 パイプは灰汁のように苦い味がした。脇に置いてまた横になった。心は偽りの記憶の波の上を漂った。同じことを何度もやり、同じ場所へ行き、同じ人々に会い、同じことを何度も言った。その度に現実のように感じた。何か現実の事件に、初めてぶつかるように。私は激しい雨をついてハイウェイに車を駆り立てていた。車の隅にはシルヴァー・ウィグが乗っていたが、一言も口を利かないので、ロスアンジェルスに着くまでに我々はもとの赤の他人に戻っていた。終夜営業のドラッグ・ストアで車を下り、バーニー・オールズに電話をかけた。リアリトで一人の男を殺した。これからエディ・マーズ夫人を連れてワイルドの家に向かう。夫人は私が殺すところを見ていた、と言った。私は雨に洗われて静まり返った通りをラファイエット・パークまで車を急がせ、ワイルドの大きな木造家屋の屋根のついた車寄せの下にとめた。玄関灯はすでに点っていた。私が来ることをオールズが話しておいたのだ。私はワイルドの書斎にいた。地方検事は花模様のドレッシング・ガウンを着て机に向かい、硬く厳しい顔つきで斑入りの葉巻を指の間で動かし、唇には苦い笑みを浮かべていた。オールズもいた。保安官事務所から来た痩せて白髪交じりの学者風の男は、警官というよりも経済学の教授のように見えたし、そういう話し方をした。私はあったことを話し、男たちは黙って聴いていた。シルバー・ウィグは陰に座って、誰を見るでもなく手を膝の上に置いていた。たくさんの電話が掛けられた。殺人課から来た二人の男は、まるで巡業中のサーカス一座から逃げてきた見慣れない動物か何かのように私を見た。私はもう一度車に乗り、そのうちの一人を隣に乗せてフルワイダー・ビルディングに向かった。我々はその部屋にいた。ハリー・ジョーンズはまだ机の向こうの椅子に腰かけていた。死に顔は歪んだまま硬直し、部屋には甘く饐えた匂いがしていた。検死官はひどく若い頑丈な男で首には赤い剛毛が生えていた。指紋係が徒に騒ぎ立てるので、採光窓の掛け金を忘れるな、と言ってやった(カニーノの親指の指紋がそこに残っていた。私の話を裏付ける、茶色の男が残した唯一の指紋だった)。
 またワイルドの家に戻り、秘書が別室でタイプした陳述書に署名した。それからドアを開けてエディ・マーズが入ってきた。シルバー・ウィグを見つけたときその顔に急に微笑みが閃いた。そして彼は言った。「やあ、シュガー」女は見向きもせず、返事もしなかった。エディ・マーズは生き生きして元気だった。黒いビジネス・スーツを着て、ツィードのコートから縁飾りのついた白いスカーフを覗かせていた。それからみんな出て行った。ワイルドと私だけを部屋に残して。ワイルドが怒りのこもった声で冷やかに言った。「これが最後だ、マーロウ。次にこんな人を出し抜くような真似をしてみろ、ライオンの檻に放り込んでやる。誰かが心を痛めようと知ったことか」
 その繰り返しだった。ベッドに横たわってじっと見続けている裡に、光の斑点が壁の隅を滑り落ちていった。そのとき電話が鳴った。ノリスだった。スターンウッド家の執事のいつも通り非の打ちどころのない声だ。
「マーロウ様? オフィスにお電話したのですが、不首尾に終わりまして、失礼をも省みずご自宅にお電話を差し上げた次第です」
「一晩中外出していたのでね」私は言った。「寝ていないんだ」
「さようでございましたか。もし、お差支えなかったら、将軍が今朝お目にかかりたいとのことです。マーロウ様」
「半時間かそれくらいで行ける」私は言った。「将軍の具合はどうだい?」
「横になっておられます。でも、具合は悪くありません」
「私に会うまではそうだろうね」そう言って電話を切った。》

「ねずみ色の髪をくしゃくしゃにした」は<rumpled his mousy hair.>。双葉氏は「くしゃくしゃな頭をかいた」と訳している。村上氏は「くすんだ色合いの髪をくしゃくしゃにした」だ。<mousy>は「(色、匂いなどが)ねずみのような」という意味。そういえば、最近はあまり「ねずみ色」という言葉を目にしなくなった。村上氏はそれで「くすんだ色合いの」としたのだろう。だが、わざわざ<mousy>と書いているのだから、使えばいい。「ねずみ色」は「灰色」と同様に扱われているが厳密には「やや青みがかった灰色」のこと。

「彼はほぼ穏やかと言っていい声で言った」は<he said almost gently.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「と彼は優しいと言えなくもない声で言った」だ。普通なら<he said>で済ますところを、わざわざ挿入しているのだ。何とか工夫して警部の心理を表そうとするのも訳する者の務め。<almost>は「九部通り、ほとんど」を表す。村上氏の「と言えなくもない」では、優しさの量が足りていないようにも思えるが、どうだろう。

「ほとんど一晩中、怒鳴られるためにあちこち引き回されていた」は<I was standing on various carpet most of the night, being balled out.>。双葉氏は「一晩じゅういろいろなところで、寝たり、起きたり」と意訳している。おそらく<ball out>のいい訳が思いつかなかったので<standing>を使って「寝たり、起きたり」と作文したのだろう。

村上氏は「昨夜はほとんど一晩中、あっちこっち引き回された。へとへとになるまで」と訳している。<ball out>を「ものすごい」という意味の俗語と考えたか、ゴルフでバンカーにボールを出すこと、ととったのか。しかし、その場合<ball>は<balled>と動詞のようには変化しない。<ball out>は「ひどく叱られる」という意味の<bawl out>の言い換えだろう。検事や刑事に譴責されるためにワイルドの家や殺人現場に引き回されたことを言っているのだろう。

「これからエディ・マーズ夫人を連れてワイルドの家に向かう。夫人は私が殺すところを見ていた、と言った」は<and was on my way over to Wilde’s house with Eddie Mars’ wife, who had seen me do it.>。双葉氏はここを「それから、エディ・マーズの妻をつれてワイルドの家へ行った」と訳している。<on my way>は「行く途中」で、これはオールズに電話で話した内容である。村上氏も「エディ・マーズの女房と一緒にこれからワイルド検事の家に行く。彼女は私がその男を殺すところを目撃した、と言った」と訳している。

「頑丈な男で首には赤い剛毛が生えていた」は<husky, with red bristles on his neck.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「頑丈そうな男で、首筋に赤い剛毛がはえていた」だ。

「私の話を裏付ける、茶色の男が残した唯一の指紋だった」は<the only print the brown man had left to back up my story.>。双葉氏は「私の話を裏づけする唯一の指紋だった」と訳し、「茶色の男」に言及していない。村上氏は「茶色ずくめの男が残した唯一の指紋として、私の話を裏付けてくれた」と訳している。

「次にこんな人を出し抜くような真似をしてみろ」は<The next fast one you pull>。双葉氏は「このつぎはでなことをやらかしたら」と訳している。村上氏は「次にこんな小賢しい真似をしたら」と訳している。<pull a fast one>は「人を騙す」という意味なので、双葉氏の訳は説明不足。村上氏の「小賢しい」は原義にかなっている。

<pull a fast one>が何故「人を騙す」の意味になるのか。一説によると、銃を早く抜いた方が卑怯者で、後から抜いた者は正当防衛で罪にならないという西部の掟からきているのだという。つまり、<one>は「銃」のことを指している。マーロウはカニーノに撃てるだけ撃たせてから撃っている。ワイルドが指弾しているのはそのことだ。

「私に会うまではそうだろうね」は<Wait till he see me.>。双葉氏は「会ったとき話そう」と訳している。マーロウはノリスに「(具合が悪くないというのは)将軍が私に会うまで待ってくれ」つまり、「会えば具合が悪くなる(かもしれないから)」という意味を言外に含ませている。村上氏は「私に会ったらどうなることか」と一歩踏み込んで訳している。