marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第八章(2)

《男の前を通り過ぎると、香水の匂いがした。男はドアを閉めた。エントランスは低いバルコニーに通じていた。大きなワンフロアの居間の三面に金属製の手すりが巡らされ、残る一面に大きな暖炉と二枚のドアがあった。暖炉には薪のはぜる音がしていた。バルコニーには書棚が並び、艶のある金属製の彫刻のようなものがいくつか、各々台座の上に載っていた。
 居間の中心部まで階段を三段下りた。絨毯は踝をくすぐりそうだった。蓋を閉じたコンサート・グランド・ピアノがあった。片隅の、桃色のベルベットの布裂の上に背の高い銀の花瓶があり、黄薔薇が一本挿してあった。趣味のいい落ち着いた家具が揃い、実に多くのフロア・クッションがあった。中には金色の房がついたものや、房のついていないのものがあった。荒っぽいことに縁がない者には、それなりに居心地のいい部屋だ。大きなダマスク織りの寝椅子が、枕営業に使いでもするのか、陰になった一隅に置かれていた。人々が胡坐をかいて座り、砂糖の塊をとかしいれたアブサンを啜りながら、気取った声でしゃべったり、時には金切り声を上げたりしそうな部屋だった。仕事以外なら何でも起こり得る部屋だった。
 リンゼイ・マリオット氏はグランド・ピアノの曲線に身を預け、黄薔薇の香を嗅ごうと身をかがめ、それからフレンチ・エナメルのシガレットケースを開け、金の吸い口のついた長い茶色の煙草に火をつけた。私はピンク色の椅子に腰をおろし、跡が残らねばいいがと願った。私はキャメルに火をつけ、鼻から煙を出し、台の上できらめく金属を見た。豊かで滑らかなカーブを見せ、浅いくぼみとカーブの上に二つの隆起があった。私はそれを見つめ、マリオットは私がそれに目を留めているのを見た。
「ちょっと面白いだろう」彼は無頓着に言った。「この間見つけたんだ。アスタ・ディアルの『暁の精神』だ」
「私は、クロップスタインの『尻の二つの疣』かと」
 リンゼイ・マリオット氏の顔は蜜蜂を飲みこんだようになったが、何とか努力してやり過ごした。
「君は一風変わったユーモアのセンスをお持ちのようだ」
「特に変わってはいません」私は言った。「遠慮がないだけです」
「そのようだね」彼はたいそう冷やかに言った。「ああ、もちろん。言うまでもない…ところで、君に来てもらったのは、実際のところ些細なことなんだ。君の手を煩わせるほどの価値はない。私は今夜何人かの男に会って、多少金を払うのだが、誰かに立ち会ってもらう方がいいのではと思ったんだ。銃は携行しているのかな?」
「時によっては」私は言った。私は肉付きのいい顎にできた広い窪みを見ていた。おはじきがすっぽりとおさまりそうだ。
「それを使ってもらいたくない。そういうことでは全くない。純粋に仕事上の交渉なんだ」
「あまり人を撃ったことはありません。恐喝ですか?」
 マリオットは眉をひそめた。「そうじゃない。普段から、人に恐喝されるような根拠を与えないように気をつけている」
「慎ましい人だってそういう目に遭うことはある。慎ましい人だからこそそういう目に遭うと言えるかもしれない」
 マリオットは煙草をゆらゆらと振った。藍緑色の眼にかすかに物思いが滲み出たが、唇は微笑みを浮かべていた。絹の首吊り縄が似合いそうな微笑だ。
 マリオットはもう少し煙を吹いてから首を後ろにそらせた。それが喉の柔らかいしっかりした線を強調することになった。両眼がゆっくりと下がってきて私を値踏みした。
「おそらくその男たちとはどこか寂しい場所で会うことになるだろう。どこになるかはまだ知らない。詳しいことは電話で知らされるはずだ。いつでも出られるように用意しておかねばならない。そんなに遠いところではないはずだ。分かっているのはそんなところだ」
「いつから始まった話ですか?」
「実際のところ、三日か四日前だ」
「ボディーガードの件にずいぶん時間がかかりましたね」
 マリオットはそのことについて考えこんだ。そして煙草の黒い灰を落とした。「その通りだ。心を決めかねていた。独りで行くのがいいのか、誰かが私と一緒にいてもいいのか、はっきりとは言っていなかった。一方、私はあまり勇敢でもない」
「もちろん向こうは顔を知ってるんですね?」
「どうかな、私は大金を運ばなくてはいけないが、それは私の金ではない。友だちのために動いているんだ。もちろん、自分の金を払うわけじゃないからどうだ、ということはないが」
 私は煙草を消し、ピンク色の椅子に背をもたせて、組んだ両手の親指を弄んだ。
「金額はいくらで―そもそも何のために払うのですか?」
「ああ、それは―」今では曇りのない良い感じの微笑になっていたが、私はまだ気に入らなかった。「中身に立ち入ることは避けた>い」
「私は、あなたの帽子を持ってただついて行けばいいのですね?」
マリオットはまた手を急に動かし、灰が白いカフスに落ちた。そして灰をふるい落とし、灰があった場所をじっと見つめた。
「君の態度がどうも気に入らない」彼は言った。声にとげがあった。》

「艶のある金属製の彫刻のようなものがいくつか、各々台座の上に載っていた」は<there were pieces of glazed metallic looking bits of sculpture on pedestals>。清水氏は「金属製の彫刻がいくつかあった」と<on pedestals>をあっさり省略している。村上氏は「艶やかな金属製の彫刻らしきものがいくつか、それぞれ台座の上に載っていた」と<pedestals>についた<s>を意識して訳している。

「背の高い銀の花瓶」は<a tall silver vase>。清水氏は拙訳と同じ訳だが、村上氏はどうしたことか「ピアノの隅には黄色いバラを一本だけ差した花瓶が置かれていた」と<a tall silver>を訳し忘れている。その後に「花瓶の下にはピーチ・カラーのヴェルヴェットの布が敷かれている」と、一文を二つに分けたことで見逃したのかもしれない。

「大きなダマスク織りの寝椅子が、枕営業に使いでもするのか、陰になった一隅に置かれていた」は<There was a wide damask covered divan in a shadowy corner, like a casting couch>。清水氏は「光線の暗い一隅に、紋緞子(どんす)で覆われた幅の広い寝椅子があった」と<like a casting couch>をカットして訳している。村上氏は「大きなダマスク織りの長椅子が置かれていた。ハリウッドの配役担当重役の部屋に曰くありげに置いてありそうな寝椅子だ」と、長く言葉を補っている。<a casting couch>とは「枕営業」を意味する言葉で、村上氏は単刀直入に訳すことを避け、補足説明を加えることで仄めかす。好みの分かれるところだろう。

「人々が足を組んで座り」は<people sit with their feet in their laps>。清水氏はここをカット。村上氏は「人々があぐらをかいて座り」と訳している。胡坐なのか、伸ばした足を重ねているのかはよく分からないが、とにかくリラックスした姿勢でいるのは確かなことだと思う。

「砂糖の塊をとかしいれたアブサンを啜りながら」は<sip absinthe through lumps of sugar>。清水氏は「角砂糖をふくみながらアブサンをすすり」と訳している。村上氏は「砂糖のかたまりにアブサンを染ませながら飲み」と訳している。清水氏のような飲み方があるのかどうかは知らないが、アブサンの飲み方の一つに特別なスプーンの上に置いた角砂糖をグラスの上に置き、砂糖の上にアブサンを注いでいくカクテルがある。アブサンを吸った砂糖に火をつけるのがボヘミアン・スタイル。火をつけずに水で溶かして後からアブサンを入れて混ぜるのがクラシック・スタイル。どちらにしても溶け残った砂糖を混ぜてから飲むことになる。

「台の上できらめく金属を見た」は<looked at a piece of shiny metal on a stand>。どこにも「黒い」とは書いていないのだが、清水氏はここを「台の上に黒く光っている金属を眺めた」、村上氏は「台座の上に載っている黒いぴかぴかした金属の塊を眺めた」と訳している。村上氏は清水訳に引きずられているのだろう。こういう箇所は他にもある。

「私は肉付きのいい顎にできた広い窪みを見ていた。おはじきがすっぽりとおさまりそうだ」は<I looked at the dimple in his broad, fleshy chin.You could have lost a marble in it>。清水氏はここを「私は彼の肉づきのいい頬の笑(え)くぼを見つめた。おはじき(傍点四字)が隠れてしまうほど、深い笑(え)くぼだった」と訳している。いうまでもなく<chin>は「顎」であって「頬」ではない。村上氏は「彼の肉付きの良い広い顎のくぼみを、私は見ていた。おはじきがそこにすっぽり呑み込まれそうだ」と訳している。

「絹の首吊り縄が似合いそうな微笑だ」は<The kind of smile that goes with a silk noose>。清水氏はここもカットしている。村上氏は「シルクの首吊り縄に似合いそうな微笑だ」と訳している。

「もちろん、自分の金を払うわけじゃないからどうだ、ということはないが」は< I shouldn't feel justified in letting it out of my possession, of course>。この訳はむずかしい。清水氏は「もちろん、ぼくはその金を渡したくないと思っているんだ」とずいぶん突っ込んだ意訳にしている。村上氏は「もちろん自分の懐から出す金であれば、それで気が楽になるというものでもないが」と訳している。要は代理として他人の金を相手に渡すことの葛藤を言いたいのだろうが、ぴったりの訳文が浮かばない。