marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第九章(1)

 

《家の中は静まり返っていた。遠くに聞こえる音は、岸打つ波の音か、音立ててハイウェイを駆け抜ける車の音、あるいは松の梢を揺らす風の音かも知れなかった。当然のことに海の音だった。遥か崖下で砕け散る波の音だ。私はそこに座って耳を澄ませながら長い間考えに耽っていた。慎重に思いを巡らせていた。一時間半の間に電話のベルが四回鳴った。大事な電話は八時十分過ぎにかかって来た。マリオットは異様に低い声で手短かに話すと、音も立てずに受話器を架台に置き、静かに立ち上がった。顔が強張って見えた。今は黒っぽい服に着替えていた。音も立てずに歩いて部屋に戻り、自分のブランデー・グラスに気つけの酒を注いだ。手に持ったグラスを束の間灯りにかざし、奇妙に物悲しそうな微笑を浮かべると、素早くくるりと回し、首を後ろに反らして一気に喉に流し込んだ。
「さて、準備は万端だ、マーロウ。用意はいいか?」
「それでこそ一晩中待ってた甲斐があるというものだ。どこへ行くんだ?」
「プリシマ・キャニオンというところだ」
「聞いたことがない」
「地図を持って来よう」マリオット地図を持ってくると素早く広げた。地図の上にかがんだとき、けばけばしい髪に当たった光がちらついた。指が地図を指し示した。ベイシティの北を通る湾岸ハイウェイを下りると、道は麓の大通りに沿って広がる町に向かう。その先は多くの峡谷に分かれている。そのうちのひとつだった。大体の見当はついたが、それ以上は分からない。カミノ・デ・ラ・コスタと呼ばれる通りの突き当りに位置しているようだ。
「ここからだと十二分とかからないだろう」マリオットは早口で言った。「そろそろ出かけよう。じゃれ合っていられるのは、たった二十分だ」
マリオットは私に明るい色のコートを手渡した。標的にはうってつけだ。サイズはぴったりだった。帽子は自分のをかぶった。脇の下に拳銃を吊るしていたが、言わずに置いた。
 コートを着ている間にマリオットは神経質な声でしゃべり続け、両手は八千ドルが入った分厚いマニラ封筒の上で踊り続けていた。
「プリシマ・キャニオンの突き当りには、水平な棚のようなものがあるそうだ。フォー・バイ・フォー製の白い囲いで道路から隔てられているが、かろうじて入れる。未舗装路が小さな窪地に入り込んでいて、我々はそこでライトを消して待つ。その辺りに人家はない」
「我々?」
「まあ、名目上、私がということだ」
 マリオットがマニラ封筒を手渡し、私はそれを開けて中身をのぞいた。たしかに現金だった。大量の札束だ。数えたりはしなかった。輪ゴムをはめ直し、包みをコートの内側に突っ込んだ。あばら骨の凹んだところにすっぽり収まった。
 我々はドアまで行き、マリオットがスイッチを切った。そして、慎重に玄関のドアを開け、霧のかかった外気を凝視した。我々は外に出て、潮気で変色した螺旋階段を、車庫のある地面まで下りた。
 少し霧が出ていた。この辺りでは夜になると霧が出る。しばらくフロント・グラスのワイパーを動かさなければならなかった。大型の外国車は勝手に走ってくれたが、見かけ上ハンドルに手を添えていた。
 二分間ほど、山肌を八の字を描くように行ったり来たりして、オープン・カフェのすぐ傍に出た。マリオットが階段を上がるように言った理由が今なら分かる。こんな曲がりくねった道を何時間走っても、餌箱の中の蚯蚓ほども距離を稼ぐことはできなかったろう。
 ハイウェイに入ると、両方向に流れる車のライトは途切れることのない一条の光線のようだった。うなり声を上げて北に向かう大型トラックの車列が、緑と黄色のオーバーハング・ライトで一面を花綵のように飾っていた。三分ほど走って大きなガソリン・スタンドのところで内陸部に折れ、丘陵地帯の山懐を縫うように走った。静かになった。寂れたところで、海藻灰と丘の方から漂ってくるワイルド・セージの匂いがした。所々に黄色い窓灯りが浮び上り、まるで摘み残されたオレンジのように見えた。車が通り過ぎ、冷たい白い光を舗装道路に浴びせながら唸り声をあげ、また暗闇の中に消えて行った。空では霧の切れ端が星を追いかけていた。
 マリオットが後部座席から身を乗り出して言った。
「右手の灯りがベルヴェべデーレ・ビーチ・クラブだ。次の渓谷がラス・パルガス、その次がプリシマだ。二番目の坂の上で右へ曲がるんだ」声は押し殺され、張りつめられていた。
 私はぶつぶつ言いながら運転を続けた。「頭を下げてるんだ」私は肩越しに言った。「どこから見られているか知れたものじゃない。この車はスパッツ姿でアイオワのピクニックに出かけるみたいに目立つ。連中はあんたが双子になるのを喜ばないだろう」》

「地図の上にかがんだとき、けばけばしい髪に当たった光がちらついた」は<the light blinked in his brassy hair as he bent over it>。清水氏はここをカットしている。村上訳はこうだ。「その上にかがみ込むと、彼の真鍮のような色合いの髪が明かりを受けて輝いた」。<brassy>は「真鍮色の」の意味もあるが、「けばけばしい、安っぽい、低俗な」を意味することもある。マーロウはマリオットの髪が気に入らないことを覚えておきたい。
この車はスパッツ姿でアイオワのピクニックに出かけるみたいに目立つ
「マニラ封筒」は<the manila envelope>。そのままなのだが、清水氏は「ハトロンの封筒」と訳している。マニラ麻を素材とする「マニラ封筒」は防水性が高いので、こういった小説ではおなじみのアイテムなので、別に言いかえる必要はないと思うのだが。もちろん村上氏も「マニラ封筒」だ。

「大型トラックの車列」と意訳したのは<The big cornpoppers>。例によって、清水氏はこの語を含む一文をカットしている。インターネットの普及している今とちがって、当時<cornpopper>を辞書で引いても何も出てこなかったろう。今なら、ネットでポップコーンを作る道具の画像くらいは出てくる。村上氏も「大きなポップコーン・マシーンたち」と訳しているのだから。でも、残念。

<cornpopper>は、幼児の歩行を補助する玩具で、日本でいう「カタカタ」に類する幼児用のおもちゃのことだ。アメリカのそれは、プラスチック製の透明の半球の中にカラフルなゴムボールがいくつも入っていて、歩くたびにそれがドームにあたって音を立てる。マーロウは大型トラックのオーバーハング・ライトの賑やかな光をそれに見立てている。日本のデコトラを思い出してもらえれば、その派手派手しさが想像できるだろう。

「この車はスパッツ姿でアイオワのピクニックに出かけるみたいに目立つ」は<This car sticks out like spats at an Iowa picnic>。例によって清水氏はここをカット。村上氏は「この車はなにしろアイオワのピクニック場のスパッツみたいに目立つからね」と訳している。マーロウの軽口は必要ないと思えば必要ないものだが、緊張を和らげたり、相手に軽くジャブを試みたりするときにも使用されるので不用意にカットするのは考えものだ。