marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十章(2)

《車が停まっていた場所に行き、ポケットから万年筆型懐中電灯を取り出し、小さな光で地面を調べた。土壌は赤色ロームで、乾燥すると非常に固くなるが、乾上るほどの気候ではなかった。少し霧がかかっていて、地面は車の停まっていた跡を残す程度の湿気を帯びていた。ごく微かだが、ヴォーグ社製の高耐久性タイヤの痕が認められた。そこに光を当ててかがみ込むと、痛みで頭がくらくらした。私は轍の跡をたどっていった。三メートルほど直進した所で左に折れていた。連中は引き返さず、そのまま白いバリケードの左端の隙間に向かっていた。轍はそこで消えていた。
 バリケードまで行き、小さな光で茂みを照らした。折れたばかりの小枝があった。隙間を通り抜け、曲がった坂道を下りた。ここも地面は柔らかかった。タイヤの痕はもっと目立っていた。そのまま坂を下り、カーブを曲がって灌木で閉じられた窪地の端まで行った。
 車はそこにあった。クロームと光沢仕上げ塗装は暗闇の中でも輝きを忘れていない。テールライトの赤い反射鏡がペンシル・ライトの光を受けて輝いていた。黙って、明かりを消し、ドアをみんな閉じていた。私は一歩ごとに歯を噛みしめながら、ゆっくりそちらに向かっていった。リアのドアを開け、ライトで中を照らした。空だった。前の席も同じだ。イグニッションは切られていた。細い鎖のついたキーは差しっぱなしだった。シートは引き裂かれておらず、ガラスに傷もついていない。血痕もなければ死体もなかった。すべてがきちんと整っていた。私はドアを閉め、車の周りをゆっくり回ってみた。手がかりを探したが、何も見つからなかった。
 物音がして、私は立ちすくんだ。
 エンジンの音が灌木の縁で聞こえた。飛び上がったとしても三十センチ足らずだ。手に持ったライトを消した。拳銃が自ずから手の中に滑り込んできた。ヘッドライトが上向きに空を照らし、また下を向いた。エンジン音は小型車のようだった。湿気を帯びた大気の中で満足げな音を立てていた。
 ライトが下向きになり、明るさを増した。車が一台、未舗装路のカーブを下りてきた。道路を三分の二ほど降りたところで停まった。カチッという音とともにスポット・ライトが点灯し、横に動いてしばらくはそのまま動かなかった。やがてまた消えた。車が坂を下ってきた。私はするりとポケットの中から銃を取り出し、マリオットの車の後ろにかがんだ。
 形も色も特徴のない小型のクーペが窪地に滑り込んできたせいで、ヘッドライトがセダンのフロントからリアエンドまで一舐めした。私は慌てて頭を引っ込めた。ライトが剣のように頭の上を薙いだ。クーペが停まった。エンジンが切れた。ヘッドライトも消えた。静寂。それからドアが開き、軽い足音が地面を踏んだ。再び静寂。蟋蟀も啼きやんだ。光線が闇を低く切り裂いた。地面と平行に僅か数インチ上を光線がさっと通り、私は足首を避ける暇を与えられなかった。光線は私の足の上で止まった。光線が上がってきて、再びボンネットの上を照らした。
 笑い声がした。若い娘の笑い声だ。ぴんと張ったマンドリンの弦のように緊張している。こんな場所には似つかわしくない。白い光線はまた車の下を照らし、私の足に落ち着いた。
 声が言った。甲高いというにはもう少しという声だ。「そこから出てきなさい。両手を上げて、つまらない真似をすると、撃つわよ」
 私は動かなかった。
 かざしている手の震えを物語るように、ライトが少し揺れた。光がゆっくりとボンネットの上をもう一度舐めた。声がまた私を突き刺した。
「誰だか知らないけど、よく聞いて。私は十連発の自動拳銃を構えてる。腕は確かよ。あなたの両脚はまる見え。それでもやるの?」
「銃を置くんだ―それとも手から吹き飛ばされたいか!」私は怒鳴った。私の声はまるで誰かが鶏小屋の薄板を引き剥がしているように響いた。
「あら、まあ、ハードボイルドな方のようね」声には少し震えが聞き取れた。かわいい震え声だ。それから再び硬くなった「出て来る気はないの? 三つ数える。勝ち目があるかどうか考えなさい。言っておくけど、それってシリンダーが贅沢なことに十二もあるのよね。それとも十六気筒かしら。でも、あなたの足は傷を負うわ。それに踝の骨は治るまで何年もかかる。時には治らないままということも」 
 私はゆっくり立ち上がり、懐中電灯の光を見つめた。
「怖いときにしゃべり過ぎるのは私も同じだ」私は言った。
「動かないで、じっとしてて! あなたは誰?」
 私は車の前を回って女の方に動いた。懐中電灯の後ろの華奢な暗い人影から六フィートのところで足を止めた。懐中電灯の光は私をじっと眩しく照らしていた。》

「乾上るほどの気候はではなかった」は<but the weather was not bone dry>。清水氏はカット。村上訳「しかしこのあたりはそこまで乾ききってはいない」。

「ヴォーグ社製の高耐久性タイヤの痕」は<the tread marks of the heavy ten-ply Vogue tires>。清水氏は「重いヴォーグのタイヤの跡」と訳している。村上訳は「ヴォーグ社製の十層重ねの重量級タイヤのあと」だ。<the heavy ten-ply>をどう訳すかということだ。<ten-ply>は、村上訳の通りで、少し前まではタイヤの強度を上げるために、木綿糸で編まれたベルトのような補強材(プライレーティング)をタイヤ内部に巻きつけていた。

<ten-ply>は、十層のことで、通常四層や六層であることから考えると、かなりの高耐久性であることを意味している。次に<heavy>だが、「重い」という旧訳に引きずられてか、新訳も「重量級」という訳語をあてている。この<heavy>は「酷使に耐える」という意味の<heavy-duty>のことだと思う。<Vogue>は、当時の高級タイヤメーカーの社名。

「そこにに光を当ててかがみ込むと、痛みで頭がくらくらした」は<I put the light on them and bent over and the pain made my head dizzy>。清水氏は何故かここもカットしている。村上訳は「そこに光をあててかがみ込むと、殴打された部分がずきずき痛み、めまいを感じた」と、言葉を補って訳している。

次の段落でも清水氏は「隙間を通り抜け」<I went through the gap>と「ここも地面は柔らかかった」<The ground was still softer here>を訳していない。村上訳は「私は隙間を通り抜け」、「あたりの地面はより柔らかくなっていて」である。

その次の段落でも清水氏のカットは目立つ。「クローム」<chromium>の一語と「すべてがきちんと整っていた」<Everything neat and orderly>の一文が抜けている。「クローム」は村上訳も同じ。もう一つの方は「異変らしきものは何も見当たらなかった」と意訳している。

「物音がして、私は立ちすくんだ」は<A sound froze me>。清水訳では「突然、物音が聞こえた。私はからだに冷水を浴びせられたように緊張した」と珍しく説明的だ。村上訳だとこうなる。「物音が私を縮み上がらせた」。<floze>は、アメリカのハロウィンの夜に日本人学生が射殺された時に言われた言葉「フリーズ」のことだ。「動くな、じっとしてろ」という意味である。「寒さを感じる」の意味で訳すところではない。

その次の「飛び上がったとしても三十センチ足らずだ」は<I didn't jump more than a foot>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「飛び上がったとしても、せいぜい三十センチ程度のものだ」。どうでもいいといえばどうでもいいようなものだが、作者が書いているのだから、訳者は訳すべきだろう。

「湿気を帯びた大気の中で満足げな音を立てていた」も清水氏はカットしている。霧が出て空気が湿っていることについては、マーロウは再三再四喚起している。カットするべきところではない。村上氏は「はきはきとした音が湿気を含んだ大気を叩いていた」と、ちゃんと湿気に触れている。車のエンジン音を「はきはきとした」と形容する感覚にはちょっとついていけない気はするとしても。

「地面と平行に僅か数インチ上を光線がさっと通り」は<parallel to the ground and only a few inches avobe it>。清水氏は「地上数インチのところを、地面と平行に流れた」と訳している。単位の訳し方については悩ましいものがあるが、一インチは約25ミリメートル。村上氏はここを「地面と平行に、その数センチ上のあたりを」と訳している。村上氏が律儀にメートル法に換算しているのは読者に親切なところだが、一字ちがいでも「センチ」と「インチ」は単位がちがう。<few>は「少しの」という意味だから、実質として大差はないが「数センチ」なら「二、三センチ」、「数インチ」なら「五、六センチ」くらいか。この程度の差なら許容範囲と見たのだろう。

「甲高いというにはもう少しという声だ」は<not quite shrilly>。<shrilly>は「金切り声、甲高い」という意味。清水氏は「意外に柔らかい調子の声」と訳している。村上氏は「ほとんど甲高いと言ってもいい声だ」だ。<not quite>は「完全には~でない、~とまではいかない」というような意味なので、「甲高くはないが、どちらかといえばそれに近い」声なのだろう。

「銃を置くんだ」は<Put it up>。清水氏は「ピストルをそのまま持ってるんだね」と訳している。その後に「さもないと、君の手から叩き落すぜ」と続けている。いくら何でも銃で撃たれても持ち続けていられるはずがない。村上氏は「銃を下ろせ」と訳している。<put up>には古英語で「剣を収める、戦いをやめる」の意味がある。また「~を上に置く」という意味もある。<up>を「下ろせ」と訳すのも野暮なので「置く」と訳してみた。

「私の声はまるで誰かが鶏小屋の薄板を引き剥がしているように響いた」は<My voice sounded like somebody tearing slats off a chicken coop>。清水氏は「私の声は、鶏小舎(とりごや)に小石を投げつけたように響いた」と訳している。<tear off>には「もぎとる、はがす」の意味がある。清水氏がどうして「投げる」を訳語として選んだのかがよくわからない。村上氏は「私の声には、誰かがニワトリ小屋から板をはがしているような響きがあった」と訳している。

「あら、まあ、ハードボイルドな方のようね」は<Oh-a hardboiled gentleman>。清水氏は「えらそうなことをいうのね」と意訳している。この場合の<gentleman>は、目の前にいる名前を知らない男性を指していう言葉で、「男の方、殿方」などと訳す。村上氏は「あらあら、ハードボイルドな方のようね」と訳している。チャンドラーが活躍しだした頃には、「ハードボイルド」という名称は確立していた。ここはそのまま訳したいところだ。

「言っておくけど、それってシリンダーが贅沢なことに十二もあるのよね。それとも十六気筒かしら」は<I'm giving you-twelve fat cylinders, maybe sixteen>。清水氏は当然のようにカットしている。ロールスロイスは耐久性に優れた車だ。その後ろに隠れていても足だけはまる見えだということを言っている。村上氏は「そのエンジンはたっぷりと十二気筒はあるかもしれない。あるいは十六気筒かもね」と訳している。小型のクーペに乗っている娘の嫌味である。