marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第12章(2)

《「少し遡って考えてみようか?」彼は言った。「誰かがマリオットとその女を襲い、翡翠のネックレスその他を強奪した後、推定価格よりかなり安価と思われる値での売却を持ちかける。マリオットが支払いの交渉にあたり、自分一人でやると言い出した。相手がそう主張したのか、話の中で出たことなのか、それは知らない。普通こういう場合、もっと煩雑な条件がつくものだ。しかし、マリオットはどうやら君を連れて行って差し支えないと考えたようだ。君ら二人は、組織的なギャング相手の取引だと考えて、連中なりのルールに則ったやり方で事を運ぶものと考えた。マリオットは怖がっていた。当たり前のことだ。誰か連れがほしかった。君がその誰かだ。しかし君は彼にとって赤の他人だ。偶々手渡された名刺にあった名前に過ぎない。それもよく知らない相手からな。彼が言うには共通の友人だそうだが。その上いよいよ土壇場というときになって、マリオットは君が金を運び、相手と話すことに同意する。その間、彼は車に隠れている。君はそれが自分の考えだというが、おそらく彼は君がそう申し出ることを待っていて、もし君が言い出さなければ、自分から言い出しただろう」
「はじめは嫌がってたんだ」私は言った。
 ランドールはまた肩をすくめた。「嫌がってるような振りをしたが、やがては折れた。そこに、ようやく電話がかかってきて、君は言われた場所に出かけた。すべてはマリオットの口から出たことだ。君が自分で知ったことなどひとつもない。君がそこに着いたとき、あたりに人の気配はなかった。君は窪地まで下ろうと考えたが、大型車が通るだけの空きがなかった。実際、その通りだった。車の左側にかなり酷いひっかき傷があった。それで君は車を降り、歩いて窪地に向かった。何も見えず何も聞こえなかった。数分後、車に引き返したところで、車の中にいた誰かが君の後頭部を殴った。ここで、マリオットは金が欲しくて君を身代わりにした、と仮定してみよう。彼の動きは逐一それをなぞっていないかな?」
「しゃれた仮説だ」私は言った。「マリオットは私を殴って、金をとった。その後、自責の念にかられて自分の頭を死ぬまで殴った。金を茂みの下に埋めたその後で」
 ランドールは無表情に私を見た。「もちろん共犯者がいたのさ。君たち二人を倒した後、そいつが金をとって逃げる手はずだった。マリオットは共犯者の裏切りにあって殺された。君が殺されずにすんだのは顔を知られていないからだ」
 私は感心してランドールを見つめ、木のトレイで煙草をもみ消した。以前は内側にガラスの灰皿が入ってたのだろうが、今はなくなっている。 
「事実に符合している―我々が知る限りのだが」ランドールは穏やかに言った。「今のところ、考えられる一番もっともらしい仮説だ」
「一つ事実に符合しないところがある―私は車の中から殴られた、ということだな? となると、新たに何か出てこない限り、私はマリオットの仕業を疑うだろう。もっとも、殺された今となっては疑いようがないが」
「何より君の殴られっぷりがもっとも符合しているじゃないか」ランドールは言った。「君は銃を持っていることをマリオットに言わなかった。しかし、脇の下のふくらみに目をつけたかもしれないし、銃の携帯にうすうす感づいていたのかもしれない。もしそうなら、相手の油断した隙を狙うに越したことはない。それに君は車の後部に何の注意も払っていない」
「オーケイ」私は言った。「いいだろう。辻褄は合っている。もしもだ、金がマリオットのものでなく、彼は盗みを企んでおり、さらには共犯者までいたらな。計画では、二人とも頭の上に瘤を作って目を覚ますと金は消えている、そしてお互い酷い目にあったなと慰めあい、私は家に帰ってすべてを忘れる。それで終わりか? つまり、そんな結末を思い描いてたのかってことだ。それで彼の方も体裁が整う、とでもいうのか?」
 ランドールは苦々し気に微笑んだ。「俺自身、気に入ってるわけじゃない。とりあえず考えてみたまでだ。知り得た限りの事実には符合している―たいして知っちゃいないがね」
「論を立てるには、まだ知らないことが多すぎる」私は言った。「なぜ彼が真実を語っていないと決め込むんだ。ことによると強盗犯の一人が顔見知りということもあるのでは?」
「争った音を聞かなかったといっただろう? 叫び声も」
「聞こえなかった。しかし、手際よく首を絞めたかもしれない。それとも、襲われた時に恐怖のあまり声が出なかったのかもしれない。私が坂道を下りてゆくのを連中が茂みから見張っていたとしよう。何しろ少し距離が離れていた。ゆうに百フィートはあっただろう。連中は車をの中を調べてマリオットを見つける。誰かが銃を顔に突きつけ、そっと車から降ろす。それから殴り倒された。しかし、彼の言葉、あるいは顔つきが、連中の誰かに正体を知られたと思わせたんだ」
「暗闇の中でか?」
「そうだ」私は言った。「そういうことがあったにちがいない。心に残る声というのがある。暗闇の中でも知り合いなら気づく」》

「実際、その通りだった。車の左側にかなり酷いひっかき傷があった」は<It wasn't, as a
matter of fact, because the car was pretty badly scratched on the left side>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「そして実際にそのとおりだった。車の左側にはかなりひどいひっかき傷ができていたよ」と訳している。

「もっとも、殺された今となっては疑いようがないが」は<Although I didn't suspect him after he was killed.>。清水氏はここを何と思ったか「彼の立場が悪くなるじゃないか」と意訳している。村上氏は「もっとも、マリオットが殺された今では、そんな疑いは抱かないが」と訳している。ふつうはそうなるだろう。

それに対するランドールの言葉「何より君の殴られっぷりがもっとも符合しているじゃないか」は<The way you were socked fits best of all>。ここも、清水氏は「そんなことはない」と意訳している。村上訳では「君の殴られたことが、いちばん話の筋書きに合致している」だ。清水氏は、現場に第三者がいたことを暗黙の了解事項としている。

それは「それに君は車の後部に何の注意も払っていない」<And you wouldn't suspect anything from the back of the car>を「自動車の中から殴られたといって、マリオが殴ったという証拠にはならないからね」と訳していることからも分かる。つまり、清水氏によれば車の中に誰がいたとしても構わないというわけだ。おそらく、マリオットはその前に気絶させられていて、別の男が待ち構えていたという解釈なのだろう。

「それで彼の方も体裁が整う、とでもいうのか?」は<It had to look good to him too, didn't it?>。清水訳は「彼にもぐあいがよかったのだ」。村上訳は「会心の筋書きだと本人も思ったことだろうよ」だ。両氏ともマーロウが強烈な皮肉をランドールに浴びせているという解釈なんだろうが、少々回りくどい気がする。