marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第13章(4)

《ブロンドだった。司祭がステンドグラスの窓を蹴って穴を開けたくなるような金髪だ。黒と白に見える外出着を着て、それにあった帽子をかぶっていた。お高くとまっているように見えるが、気になるほどではない。出遭ったが最後、相手を虜にせずには置かない女だ。おおよそ三十歳ぐらいだろう。
 手早く酒を注ぎ、一息に飲み干した。咽喉が焼けるようだった。「持ち帰ってくれ」私は言った。「跳ねまわり出しそうだ」
「あなたのために持ってきてあげたのに。彼女に会いたくないの?」
 もう一度写真を見直し、それからデスクマットの下に滑り込ませた。「今夜十一時ではどうだい?」
「ねえ聞いて、これはジョークのネタってわけじゃないの、ミスタ・マーロウ。電話しておいた。あなたに会うそうよ。仕事でね」
「仕事からはじまる、というのもいいかもな」
 彼女がいらついた素振りをしたので、ふざけるのをやめ、使い古したしかめっ面に戻った。「何の用があって私に会いたいんだ?」
「ネックレスのことよ、もちろん。こういうことなの。彼女に電話したんだけど、当然のことになかなか取り次いでもらえなかった、でも結局は話せた。それで私はブロックの人の好い支配人にやったような話をでっち上げたんだけど乗ってこなかった。声の感じでは二日酔いみたいだった。彼女はそういうことは秘書に言って、と言ったんだけど私は電話口に食い下がって、本翡翠のネックレスをお持ちというのは事実ですか、と訊いた。しばらくしてから、彼女はイエスと言った。私は見せてもらうことはできますか、と訊いた。彼女は何のために、と言った。私はもう一度さっきの話をしたけど、最初のときと同じで相手にされなかった。聞こえたのは彼女の欠伸と外にいる誰かに電話を代われと怒鳴る声だけ。そこで、私はフィリップ・マーロウに仕えている者です、と言ったの。彼女は言ったわ、それがどうかして? そう言ったのよ」
「驚いたね。しかし、この頃では上流階級の女性も娼婦みたいな口をきくからな」
「よくは知らないけど」ミス・リオーダンは楽しそうに言った。「おそらくその中の何人かは娼婦よ。それで、他所に繋がっていない電話はないか、と訊いたの。そうしたら、私の知ったことじゃない、と言われた。でも、変なのよ、それでも電話を切らないの」
「彼女は翡翠のことを考えていて、君の前振りに気づかなかったのだろう。それとも、前もってランドールに聞かされていたか」
 ミス・リオーダンはかぶりを振った。「いいえ、私が電話で話すまで彼は誰がネックレスを持っているのか知らなかった。私が探し出したのですっかり驚いていた」
「今に慣れるさ」私は言った。「慣れなくてどうする。それから?」
「だから私はミセス・グレイルに言った。『まだ取り戻したいですよね?』と、あっさり。ほかに言い方を知らないから。何かびっくりさせることを言う必要があったの。効果覿面。あわてて別の電話番号を教えてくれた。その回線を使って、お目にかかりたいと言った。向こうは驚いたようだった。それで、話をして聞かせなければならなかった。話はお気に召さなかった。でも、マリオットが何も言って来ないのは変だと感じてた。きっと金や何かを持って南へ逃げたと思ったのね。二時に彼女に会う。その時に話すつもり。あなたがどれほど親切で控えめで、機会さえもらえればネックレスを取り戻す手助けができる人かを。彼女すでにその気でいるわ」
 私は何も言わず、彼女を見つめた。傷ついたようだった。「どうかした? 間違ったことはしてないでしょう?」
「知ってるはずだろう。今やこれは警察の事件で、私は関わるなと警告されているんだ」
「ミセス・グレイルにはあなたを雇う権利がある。もしそうしたいと思ったら」
「何をするためにだ?」
 彼女はもどかしそうにバッグの留め金を締めたり外したりした。「どう言えばいい―あの手の女で―美貌の持ち主で―分からないの―」彼女は言葉に詰まって唇を噛んだ。「マリオットというのはどんな男なの?」
「よくは知らない。同性を好みそうなところがあった。好感は持てなかった」
「女を楽しませることのできそうな男?」
「ある種の女は。それ以外は唾を吐きたくなるだろう」
「まあ、ミセス・グレイルの目には魅力的に映ったのかもしれない。よく連れ歩いていたもの」
「多分百人の男を連れ歩いていただろう。今となってはネックレスを取り戻す機会はほぼ失われた」
「なぜ?」
 私は立ち上がってオフィスの端まで歩いて行き、平手で強く壁を叩いた。隣の部屋でカタカタ鳴っていたタイプライターを叩く音がしばらく止んだ。それから、また鳴り始めた。私は開いた窓越しに自分の建物とマンションハウス・ホテルの間に開いた細長い空間を見下ろした。コーヒー・ショップの香りは濃厚でその上にガレージが建てられそうなほどだ。私は机まで戻り、ウィスキーのボトルを深い抽斗の中に落とし抽斗を閉め、再び腰を下ろした。パイプに、これで八回目か九回目になる火をつけ、半分曇ったグラス越しにミス・リオーダンの真面目で正直な小さな顔を注意深く見た。》

「出遭ったが最後、相手を虜にせずには置かない女だ」は<Whatever you needed, wherever you happened to be-she had it>。清水氏は「男の望むものはなんでも持っている女だった」。村上氏は「どのような男であれ、男たるものが求める一切を不足なく備えている女だ」と訳している。意味としては「相手が誰で、どこにいたとしても、(その男が)必要としているものなら何でも、彼女は持っていた」か。両氏とも<happen to>(たまたま~する)を訳していない。というより、村上訳は単に清水訳を勿体ぶって訳してみせただけのように見える。

「デスクマット」は以前にも出てきた<blotter>だ。清水氏は「吸取紙」、村上氏は「下敷き」と訳している。写真を隠すのだから、紙あるいは板状のものと考えられる。マーロウは、この日オフィスに入ったばかりなので、机の上に書類や簿冊は出ていないはず。だとすれば、机上に出しておいても問題のない下敷やデスクマット類と考えるのが妥当だろう。

「使い古したしかめっ面に戻った」は<got my battle-scarred frown back on my face>。清水訳は「まじめな顔を見せた」。村上訳では「歴戦の傷跡を残したタフな面相に戻った」だ。<battle-scarred>は、村上氏が訳しているように「戦傷を受けた」の意だが、「(衣類、道具などが)使い古されて傷んだ」という意味で使われる場合もある。若い娘相手にはしゃいでいたマーロウがいつもの表情に戻ったという意味だ。

「それで私はブロックの人の好い支配人にやったような話をでっち上げたんだけど乗ってこなかった」は<Then I gave her the song and dance I had given the nice man at Block's and it didn't take>。清水氏はここをまるまるカットしている。村上氏は「それで私は、ブロックの人の良いマネージャーを相手にやったのと同じ手を使ってみたんだけど、相手にもされなかった」と訳している。<song and dance>は「長々しい言い逃れ、ごまかしの説明」を表す口語表現。

「聞こえたのは彼女の欠伸と外にいる誰かに電話を代われと怒鳴る声だけ」は<I could hear her yawning and bawling somebody outside the mouthpiece for putting me on>。清水氏はここも一文丸ごとカットしている。村上氏は「彼女が受話器を手で塞いであくびをし、受話器を渡すための誰かを呼ぶ声が聞こえた」と訳している。この「受話器を手で塞いで」が意味不明だ。ふつう、受話器を手で塞いだら、相手の話し声は聞こえないものだ。<put on>は「(人を)電話に出す」という意味。これを「受話器を手で塞いで」と読んだのではないか。

「と、あっさり。ほかに言い方を知らないから。何かびっくりさせることを言う必要があったの。効果覿面」は<Just like that. I didn't know any other way to say. I had to say something that would jar her a bit. It did>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「単刀直入に切り出したわけ、ほかにどういう言い方をすればいいのかわからなかったから。相手がいくらか動揺するようなことを言う必要があったの。そしてそれはうまくいった」と訳している。

「その時に話すつもり」は<Then I'll tell her>だが、清水氏は「それから、あなたのことを話したわ」と、過去形を使って訳している。これは誤り。村上氏は「そこであなたのことを彼女に話すつもり」と訳している。

「同性を好みそうなところがあった」は<I thought he was a bit of a pansy>。清水訳は「にやけた二枚目だ」。村上訳は「なんとなくなよなよ(傍点四字)した男だ」。また<pansy>が出てきた。「にやけた男」という意味もあるが、そのものズバリ「同性愛の男」の意味もある。おそらく後者の意味で使っていると考えられるのだが、両氏ともそこをはっきりさせたくはないらしい。

「その上にガレージが建てられそうなほどだ」は<was strong enough to build a garage on>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「(匂いはとてもきつくて強固で)その上にガレージを建てることだってできそうだ」と、言葉を重ねて強調を加えている。匂いが「きつい」のはわかるが「強固」というのはどうだろう。

「ミス・リオーダンの真面目で正直な小さな顔を注意深く(見た)」は<Miss Riordan's grave and honest little face>。清水氏は「ミス・リアードンのまじめな顔つき(を見つめた)」と、あっさり訳している。村上氏は「ミス・リオーダンの小振りな、生真面目で率直な顔を注意深く(見た)」と小顔であること、注意深く見たことを略さずに訳している。これに続く部分で再度、顔に言及していることから見ても、ここは丁寧に訳すべきところだ。村上氏はチャンドラーの書くものを単なるハードボイルド小説とみなしていない。そういう視点があればこその丁寧な訳なのだ。