marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第14章(2)

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【訳文】(2)

《電話のベルが鳴り、上の空で電話に出た。冷静で非情な、自分を優秀だと思い込んでいる警官の声。ランドールだ。決して声を荒らげることはない。氷のようなタイプだ。
「通りすがりだったんだよな、昨夜ブルバードで君を拾ってくれた娘は? そこまで君は歩いて行った。よくそんな嘘何かがつけるもんだな。マーロウ」
「君に娘がいたとしよう。茂みから飛び出してきたニュース・カメラマンにフラッシュを浴びせられたくはないだろう」
「君は私に嘘をついた」
「お役に立ててよかった」
 彼はしばらく黙ったままでいた。何かを決めかねているように。「いいだろう。なかったことにしよう」彼は言った。「彼女に会ったよ。やってきて自分の知ってることを話していった。私がリスペクトしている人の娘だ」
「彼女は君に話した」私は言った。「そして、君は彼女に話した」
「ほんのさわりだけだ」彼は冷たく言った。「理由があってね。電話したのも同じ理由だ。隠密捜査になりそうだ。宝石ギャングを壊滅するいい機会なんでね。そうするつもりだ」
「一夜明けたらギャングの殺人事件になったわけだ。なるほどね」
「それはともかく、あれはマリファナの屑だったよ。おかしな煙草入れに入ってた―龍がついていたやつだ。そこから出して吸うところを君が見ていないのは確かだな?」
「間違いない。私の前では別の煙草を吸っていた。とはいえ始終目の前にいた訳じゃない」
「なら、いい。それだけだ。昨夜私が言ったことを忘れるな。この件に首を突っ込んだりしないことだ。だんまりを決め込むに限る。さもなければ―」
 彼は間を置いた。私は受話器に向かってあくびをした。
「聞こえたぞ」彼は咬みついた。「たぶん君は私に手が出せないと思ってるんだろう。やるさ。ひとつでも何かやらかしてみろ、重要参考人として逮捕する」
「この事件についちゃ、新聞は蚊帳の外ということかい?」
「殺人の件は漏らすさ―しかし、背後について知ることはないだろう」
「君だって同じだろうに」私は言った。
「君に警告するのは今ので二度目だ」彼は言った。「三度目はないぞ」
「おしゃべりが過ぎる」私は言った。「切り札を握る男に向かって」
 電話は話の途中で一方的に切れた。オーケイ。もううんざりだ。好きにさせておくさ。
 私は頭を冷やすためにオフィスの中を歩き回った。軽く一杯ひっかけながら、時計をまた見たが時間は確かめなかった。それからもう一度机の前に座った。
 ジュールズ・アムサー、心霊顧問医。ご相談は要予約。金と時間をたんまり与えれば、妻に飽いた夫からイナゴの大量発生まで何でもござれ。性生活の欲求不満、孤閨を託つ女、便りの途絶えた息子や娘たち、財産の処分は今か一年後か、その役はファンの期待を裏切ることになるのか、逆に芸域を広げるのか、といった悩みの専門家だ。男たちもこっそりやってくる。オフィスではライオンのように吼える強い男もベストの下に弱音を隠しているものだ。しかし、顧客の大半は女性だろう。ぜいぜいと喘ぐ肥った女、ぷりぷりした痩せた女、夢見る老いた女、エレクトラ・コンプレックスを疑う若い女、サイズも体型も歳も様々な女たちに一つだけ共通点がある―金(かね)だ。ジュールズ・アムサー氏は木曜日に郡立病院で診察しない。支払いは現金。牛乳代をケチる金持ち女でも即金で支払うだろう。
 筋金入りのいかさま師、鳴り物入りの宣伝屋、マリファナ煙草の中に名刺を忍ばせていた男。その名刺が死体と一緒に発見された。
 こいつは渡りに船だ。私は電話に手を伸ばし、交換手にスティルウッド・ハイツの番号を告げた。》

【解説】

「お役に立ててよかった」は<It was a pleasure>。清水訳は「楽しかったよ」。村上訳は「痛快だった」。両氏ともに直訳だ。<It’ a pleasure to ~>というのは、「あなたに~してうれしい」などというときの挨拶の冒頭につける決まり文句だ。嘘をついたことを責めている相手に対して、いけしゃあしゃあとこういう科白を吐いてみせるのがマーロウという男なのだ。

「切り札を握る男に向かって」は<for a guy that holds cards>。清水氏はここをカットして「口だけは、達者なんだな」と訳している。<guy>をどちらにするか迷ったんだろう。村上氏は<for>を「~に対して」という意味にとって「切り札を持っている人間にしちゃ」と訳している。その前に「まるであんたは何があるか知ってるみたいじゃないか」と言わせているところから見て、これをマーロウの挑発と捉えているようだ。果たして切り札を握っているのはどちらなんだろう。

「その役はファンの期待を裏切ることになるのか、逆に芸域を広げるのか」は<will this part hurt me with my public or make me seem more versatile?>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「その役柄がファンの抱いているイメージを損なうのか、あるいは逆に多芸さを評価されることになるのか」だ。新しい役どころをオファーされた俳優の躊躇だ。

「こいつは渡りに船だ」は<This was going to be good>。清水氏は例によってここをカットしている。訳しがいがありそうなところなのに。村上氏は「脈がありそうじゃないか」と訳している。いずれにしても内言で、マーロウが心の中で発したひとり言である。「しめしめ、しめこの兎」あたりを使いたいところだが、あまりやり過ぎてもいけない。「渡りに船」くらいでお茶を濁しておいた。