―フィネガンの足のような寒気、というのは―
【訳文】
《女は私の膝の上にしなだれかかった。私は顔の上に屈み込んで眼で舐めまわした。彼女は私の頬に蝶がキスするように睫を震わせた。唇を合わせたとき、彼女の唇は半開きで燃えていた。歯の間から舌が蛇のように飛び出してきた。
ドアが開いて、ミスタ・グレイルが静かに部屋に入ってきた。私は彼女を抱いており、身を振りほどく暇はなかった。私は顔を上げて彼を見た。私は寒気がした。フィネガンの足のようだった、埋められたその日の。
私の腕の中でブロンドはじっとしていた。唇を閉じようとさえしなかった。半ば夢見るような、半ば嘲るような表情を浮かべて。
ミスタ・グレイルは、軽く咳払いをして言った。「これは失礼した」それから、静かに部屋を出て行った。彼の目にはかりしれないほどの悲しみが浮かんでいた。
私は彼女を押しのけて立ち上がり、ハンカチを取り出して顔を拭った。
彼女はそのままダヴェンポートに半ば横向きに横たわっていたが、片脚のストッキングの上の肌が気前よくむき出しになっていた。
「誰だったの?」彼女は嗄れ声で訊いた。
「ミスタ・グレイル」
「だったら気にしないで」
私は彼女から離れ、この部屋に初めて入ったとき座った椅子に腰を下ろした。
しばらくして、彼女は居ずまいを正し、しっかりと私を見た。
「大丈夫。彼は理解してる。あの人に口出しなんかできゃしない」
「彼は気づいてるよ」
「だから、平気だって言ったじゃない。それで充分でしょう。彼は病人なの。どうしたっていうのよ―」
「金切り声を上げるんじゃない。金切り声を上げる女は嫌いだ」
彼女は傍に置いてあったバッグを開けて小さなハンカチを取り出し唇を拭いた。それから鏡で自分の顔を見た。「あなたの言うとおりね」彼女は言った。「スコッチが過ぎたわ。今夜ベルヴェデア・クラブで、十時に」彼女は私を見ていなかった。息遣いが速かった。
「いいところなのかい?」
「レアード・ブルネットの店。彼とは親しい仲なの」
「分かった」私は言った。私はまだ寒気を感じていた。自分が汚らしく思えた。まるで貧乏人から財布を掏ったみたいな気がした。
彼女は口紅を取り出し、唇にそっと当てた。そして私の方を見た。鏡を放ってよこした。私は鏡をつかんで顔を映した。私はハンカチに一仕事させて立ち上がり、鏡を返した。
彼女は後ろに仰け反り、喉をあらわにして、物憂げに私を見下ろした。
「まだ、何か?」
「何も。十時にベルヴェデア・クラブ。派手な格好は願い下げだ。こっちはディナー・スーツしか持ち合わせがない。バーでいいか?」
彼女はうなずいた。眼は物憂げなままだった。
私は部屋の中を通って外に出た。一度も振り返らなかった。フットマンが廊下で待っていて、私の帽子を手渡した。「大いなる岩の顔」に似ていた。》
【解説】
「彼女は私の頬に蝶がキスするように睫を震わせた」は<She worked her eyelashes and made butterfly kisses on my cheeks>。「バタフライ・キス」というのは、睫を動かしてかすかに相手に触れることをいう。まるで蝶の羽が触れたようなタッチであることからその名がついた。清水氏は「彼女はまつ毛をふるわせて、私の頬に接吻した」と訳しているが、これだと本当にキスしたようにも読める。村上訳は「彼女はまつげを微妙に動かし、私の頬をくすぐった」だ。事実上の動きはその通りだが、バタフライ・キスという言葉が響いてこない憾みが残る。
「私は寒気がした。フィネガンの足のようだった、埋められたその日の」は<I felt as cold as Finnegan's feet, the day they buried him>。清水氏は「全身が冷たくなったようだった」と訳している。これでいいと思うのだが、唐突にフィネガンという固有名詞が出てくるのがひっかかる。ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』が出版されたのが一九三九年。『さらば愛しき女よ』の出版がその翌年であることから見て、チャンドラーがそれを意識していたことは明らかだ。村上氏は「通夜の翌日のフィネガンの脚に負けないくらい背筋がひやり(傍点三字)とした」と「通夜(ウェイク)」を訳の中に盛り込んでいる。
「彼女は嗄れ声で訊いた」は<she asked thickly>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「と濃密な声で彼女は尋ねた」と訳している。「濃密な声」とは、どんな声なのだろう。たしかに<thickly>には「濃密な」の意味があるが声に使われる場合は「かすれ声、だみ声」という意味になる。
「私はまだ寒気を感じていた」は<I was still cold>。さっき感じた寒気だ。清水氏はここもカットしている。村上訳は「まだ身体に冷気が残っていた」だ。
「『大いなる岩の顔』に似ていた」は<looking like the Great Stone Face>。清水氏はカットしているが<the Great Stone Face>はナサニエル・ホーソーンの短篇のタイトルで、ニュー・ハンプシャーにある人間の顔のように見える巨大な岩山のことでもある。村上氏は「彼はニューハンプシャーの巨大人面岩みたいに見えた」と訳している。