marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第29章(3)

<here's how it works>は「仕組みはこうだ」。

【訳文】

《ランドールは無表情に私を見つめた。彼のスプーンは空っぽのカップの中の空気をかき混ぜていた。私が手を伸ばすと、彼はポットを手で制した。「その先を聞かせてくれ」彼は言った。
「連中は彼を使い切った。利用価値がなくなったんだ。君が言ったように、彼のことが少し噂になっていた。だからといって、この稼業で辞職する奴はいないし、休職というのもあり得ない。それでこのホールドアップで仕事納めということにした。事実、値打ち物の翡翠の割に、売り値は驚くほど安かった。そして、マリオットが橋渡し役を務めた。とはいうものの、マリオットは怯えていた。土壇場になって一人で行かない方がいいと考えたんだ。彼はちょっとしたトリックを思いついた。もし、彼の身に何かあれば、身につけた何かが一人の男を指し示す。この手のギャングのブレーンが務まるほど冷酷で怜悧な男、金持ち女についての情報を変わった形で得ている男だ。ずいぶん子どもじみたトリックだが、それなりに功を奏したってわけだ」
 ランドールは頭を振った。「ギャングなら身ぐるみ剥がすか、死体を海に捨てるだろう」
「いや、素人の仕業に見せたかったんだ。連中は仕事を続ける気でいた。おそらく彼の後釜が見つかっていたんだろう」私は言った。
 ランドールはそれでも頭を振った。「煙草が指し示していた人物はそういうタイプじゃない。自分の稼業で稼いでいた。調査済みだ。彼のことをどう思う?」
 彼の眼には感情がまるでなかった。あまりにも無さすぎた。私は言った。「私の目には致命的なまで危険に見えた。それに、金はいくらあっても邪魔にはならない。結局のところ、彼の心霊商売はどこでやろうが長くは続かない。今は評判になってみんなが押しかけているが、そのうち流行が廃れたら商売にならない。彼が霊能者以外の何ものでもないとしたら、ということだ。映画スターのようなものさ。よくいって五年くらいだろう。しかし、ご婦人たちから引き出した情報を活用する方法をいくつか持ってれば、大儲けできるだろう」
「もっと徹底的に調べてみよう」ランドールは漠然と言った。「しかし、今はマリオットの方に興味がある。もっと前まで戻ろう。君がどうして彼と知り合ったのかというあたりに」
「電話がかかってきたんだ。電話帳から私の名前を選んだ。少なくとも彼はそう言った」
「君の名刺を持っていた」
 私は泡を食った。「そうだった。忘れてたよ」
「なぜ彼が君の名前を選んだのか不思議に思ったことはあるのか? この際、君の物忘れについては目をつぶっておこう」
 私はコーヒーカップの縁越しに彼を見つめた。彼のことを好きになりかけていた。彼はヴェストの下にシャツ以外のものをたくさん持っていた。
「それがここに来た本当の理由か?」私は言った。
 彼は肯いた。「残りは、そうさな、ただのおしゃべりだ」彼はおざなりに微笑み、私が話し出すのを待った。
 私はコーヒーをもう少し注いだ。
 ランドールは上体を横に傾け、テーブルのクリーム色の表面に目をやった。「ほこりが少し」彼は上の空で言った。それから姿勢を正して私の眼を見た。
「ことによると、俺は少しやり方を変えて事件に取り掛かるべきなのかもな」彼は言った。「例えば、マリオットに関する君の直感はたぶん正しい。彼の貸金庫には二万三千ドルという大金が入っていた。それを見つけるのにずいぶん手間がかかった。また、かなりの額の債券と西五十四番街の土地の信託証書も持っている」
 彼はスプーンをつまみあげ、コーヒー皿の端を軽く叩いて微笑んだ。「面白いと思わないか?」彼はおだやかに訊いた。「番地は西五十四番街一六四四だ」
「ああ」私はだみ声で言った。
「そうそう、マリオットの貸金庫には宝石も少し入っていた。かなりの品らしいが、盗品とは思えない。誰かに貰った可能性が非常に高い。それも君の説に当てはまる。彼はそれを売るのが怖かった―心の中にある観念連合のせいだ」
 私はうなずいた。「彼はそれを盗んだように感じていたんだ」
「そうだな。ところで、俺は最初のうちその信託証書に全然関心がなかった。その理由を説明しよう。犯罪捜査で警官が直面していることだ。我々は遠く離れた地域で起きたすべての殺人事件と不審死の報告を受ける。それはその日のうちに読むことになっている。そういう規則なんだ。令状なしに家宅捜索したり、正当な理由なくして銃を持っていないか身体検査したりしてはいけないというのと同じことさ。だが、俺たちは規則を破る。どうしようもないからだ。俺は今朝まで、いくつかの報告書に目を通す暇がなかった。そして、今朝そいつを読んだ。黒人殺しの件だ。先週木曜日にセントラル・アヴェニューで起きた。犯人はムース・マロイという前科者のごろつきだ。それには目撃証人がいた。もし、その証人が君じゃなかったら、この話はそれまでだ」
 彼は優しく微笑んだ。三度目の微笑だ。「気に入ったか?」
「聴いてるよ」
「それが分かったのが今朝のことだ。それで報告書を書いた男の名前を見た。ナルティだ。俺はそいつを知ってる。もう、この事件はお蔵入りだと思った。ナルティはそういうやつだ―ところで、クレストラインに行ったことがあるか?」
「ああ」
「クレストラインの近くにたくさんの古い有蓋貨車がキャビンになっているところがある。俺もそこにキャビンを持っている。貨車じゃないが。ああした貨車はトラックで運ばれてくる。信じようと信じまいと、車輪もついていない。さて、ナルティというのは、あの貨車のブレーキ係にうってつけの男さ」
「そいつはあんまりだ」私は言った。「警官仲間だろう」
「それでナルティに電話したら、要領を得ないことばかり言って、何度か悪態までついた。その後、ようやく言った。マロイが昔つきあっていたヴェルマという娘のことを君が知っていると。殺人が起きた元店主の未亡人に会いに行ったこともな。そこは黒人のたまり場になっているが、マロイと娘が働いていた当時は白人専用の酒場だった。住所は西五十四番街一六四四番地、マリオットが信託証書を持っていたところだ」
「それで」
「それで、俺は思ったのさ。ひと朝の出来事にしては偶然の一致が過ぎるとね」ランドールは言った。「それで私はここにいる。これまでのところ、この件について私なりに配慮してきたつもりだ」
「骨折り損の」私は言った。「くたびれ儲けさ。フロリアン夫人によると、このヴェルマという娘は死んでいる。彼女の写真がある」
 私は居間に行き、スーツの上着に手を突っ込んだ。手が空を掻いたとき、妙な胸騒ぎがした。しかし彼らは写真を手にとりさえしなかった。私はそれを取り出し、台所まで持って行って、ぽいと投げた。ランドールの目の前にピエロ姿の娘が落ちた。彼は慎重に見た。
「見覚えがないな」彼は言った。「もう一枚の方は?」
「いや、こっちはミセス・グレイルの新聞用のスチール写真だ。アン・リオーダンが手に入れた」
 彼はそれを見て肯いた。「二千万ドルあったら、俺がこの女と結婚するよ」》

【解説】

<ランドールは上体を横に傾け、テーブルのクリーム色の表面に目をやった。「ほこりが少し」彼は上の空で言った>は<Randall leaned over sideways and looked along the cream-colored surface of the table. “A little dust,” he said absently>。清水氏は「ランドールは」の部分を除いて後をカットしている。村上訳は<ランドールは身体を横に傾け、テーブルのクリーム色の表面を眺めた。「少しほこりがたまっているな」と彼はどうでもよさそうに言った>だ。

「ことによると、俺は少しやり方を変えて事件に取り掛かるべきなのかもな」は<Perhaps I ought to go at this in a little different way>。清水氏は「こんなふうに切り出さないでもよかったんだがね」と訳しているが、これはちがうのではないだろうか。<go at>は「(仕事に)熱心に取り掛かる」という意味だ。村上訳は「俺はこの事件を少し違った方向から見直すべきなのかもしれん」だ。

「その理由を説明しよう。犯罪捜査で警官が直面していることだ」は<but here's how it works. It's what you fellows are up against in police work>。清水氏は「こいつが気になったのは、こういういきさつ(傍点四字)なんだ」と訳している。<here's how it works>は「仕組みはこうだ」というときの成句。<up against>は「直面する」という意味。村上訳は「しかし意外な成り行きがあった。警察を出し抜くのは思っているほど簡単なことじゃないんだよ」だ。

村上氏は<police work>(犯罪捜査)を「警察の仕事」と文字通り解釈し、<up against>を(マーロウのような探偵が)それに「対決して」その上を行くことの難しさを言ったものだと考えられる。しかし、ランドールの話は、村上氏のいうように警察機構の優れた点を言ってはいない。むしろ逆に、融通が利かず、硬直化していることを批判している、と考えた方が話が通る。ランドールの口調は決して誇らしげではない。むしろ苦々しい。

「もし、その証人が君じゃなかったら、この話はそれまでだ」は<And sink my putt, if you weren't the witness>。清水氏は「そして、証人として、君の名前が出てるじゃないか」と訳している。村上訳は「おたくがその証人だとわかったときには、そりゃたまげたぜ」だ。いずれにせよ<if you weren't the witness>という条件節が無視されている。<sink a putt>は「パットを沈める」の意味だが、ゴルフでパットが決まれば、そのホールでのプレイは終わる。おそらく「それまで続いていた何かを終える」ことを意味する慣用句だろう。

「それでナルティに電話したら、要領を得ないことばかり言って、何度か悪態までついた」は<So I called Nulty up and he hemmed and hawed around and spit a few times>。清水訳は「とにかく、俺はナルティを呼んで、捜査の模様を訊いてみたんだ」になっている。<call up>は「電話をかける」、<hem and haw>は「口ごもる」の意味だ。村上訳は「俺はナルティーに電話をかけてみた。やつはなんだかわけのわからんことをもごもご口走っていた。何度か悪態もついた」。