marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第29章(4)

<try to pull something>は「何か(悪いことを)企む」。

【訳文】

《「言わなければいけないことがある」私は言った。「昨夜はあんまり頭に来たんで、正気のさたとも思えないが、一人でそこを急襲してやろうと考えたんだ。ベイ・シティの二十三番とデスカンソが交わる辺りにある病院だ。ソンダーボーグという医師を名乗る男がやっている。副業として犯罪者に隠れ家を提供している。昨夜そこでムース・マロイを見た。部屋にいたんだ」
 ランドールは腰を落ち着けたままこちらを見ていた。「本当か?」
「見まちがえようがない。あいつのでかさは異様だ。あんな男は今まで見たことがない」
 彼は座って私を見ていた。身じろぎもせずに。それからひどくゆっくりとテーブルの下から脚を抜いて、立ち上がった。
「そのフロリアンの女に会いに行こう」
「マロイはどうする?」
 彼は椅子に座り直した。「詳しく教えてくれ。細大漏らさず」
 私は話した。彼は私の顔から眼を離すことなく聞いた。瞬きもしなかったと思う。彼は唇を少し開けて息をした。上体は動かなかった。指でテーブルの端を軽く叩いていた。私が話し終えると彼は言った。
「そのドクター・ソンダーボーグとやらは、どんな男だった?」
麻薬中毒者のようだ。たぶん売人だろう」私は男の人相風体をできる限り詳しくランドールに伝えた。
 彼は静かに隣の部屋に行き、電話の前に坐った。ダイヤルを回し、しばらくの間声を落として話していた。彼が戻ってきたとき、私は新しいコーヒーを淹れ、卵を二個ゆで、二枚のトーストにバターを塗っているところだった。私は座って食べた。
 ランドールは私の向かいに腰を下ろし、前かがみになり頬杖をついた。「州の麻薬捜査官に適当な理由をでっち上げて調べてもらうことにした。何か見つけるかもしれない。マロイは捕まらないだろう。昨夜君が去った十分後にはそこを後にしている。賭けてもいい」
「どうしてベイ・シティの警官じゃないんだ?」私は卵に塩を振った。ランドールは無言だった。私が見上げたとき、彼は顔を赤らめ、居心地が悪そうだった。
「警官の中で」私は言った。「君は今まで私が会った一番感じやすい男だよ」
「急いで食べろよ。我々は出かけなきゃならないんだ」
「この後、シャワーを浴びて髭を剃り、服を着なきゃいけない」
「パジャマのままで行けないのか?」彼はとげとげしく言った。
「あの街はそんなに腐りきっているのか?」
「レアード・ブルネット・タウンだ。今の市長を当選させるのに三万ドル使ったそうだ」
「ベルヴェディア・クラブのオーナーか?」
「それに賭博船が二隻」
「しかし、それは我々の郡の中にある」私は言った。
 彼は手入れの行き届いた艶のある爪を見下ろした。
「君のオフィスに寄って二本のマリファナ煙草をもらって行こう」彼は言った。「もしまだそこにあるならな」彼は指を鳴らした。「鍵を貸してくれたら、君が髭を剃って服を着ている間に私が行ってくる」
「一緒に行くよ」私は言った。「郵便が来てるはずだ」
 彼は肯いて、それから座り直し、新しい煙草に火をつけた。私は髭を剃り、服を着て、ランドールの車に乗った。
 手紙が何通か来ていたが、読む価値のないものだった。二本の細切れの煙草は机の抽斗にそのまま残っていた。誰かが触れた形跡はなかった。オフィスは捜索されていなかった。
 ランドールは二本のロシア煙草を手にとって匂いを嗅ぎ、ポケットにしまった。
「彼は君からカードを一枚取り返した」彼は物思いにふけった。「その裏に何も書いてなかったので、残りは気にも留めなかった。アムサーはあまり恐れていない―君が何か良からぬことを企んでると思っただけだ。出かけよう」》

【解説】

「昨夜はあんまり頭に来たんで、正気のさたとも思えないが、一人でそこを急襲してやろうと考えたんだ」は<Last night I was so damn mad I had crazy ideas about going down there and trying to bust it alone>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「昨日の夜、私はよほど頭がどうかしていたようだ。その場所をひとつ徹底的に、一人で捜索してやろうという、とんでもない考えを抱いた」だ。<bust>には俗語で警察が容疑のある場所を「急襲する、手入れする」の意味がある。

「ベイ・シティの二十三番とデスカンソが交わる辺りにある病院だ」は<This hospital is at Twenty-third and Descanso in Bay City>。清水訳では「ぼくがひどい目にあった病院はベイ・シティのデスカンソ街二十三丁目にある」。村上訳は「ベイ・シティーの二十三番通りの、デスカンソ通りの近くにある病院のことだよ」だ。二つの地名を<and>でつなぐときは、道路の直交する位置を示す。因みに「デスカンソ」とはスペイン語で「労働からの休息」を意味する言葉。南カリフォルニアにそういう名のコミュニティがある。

「どうしてベイ・シティの警官じゃないんだ?」は<Why not the Bay City cops?>。清水氏は「ベイ・シティの警官はこのままにしておくのか」と訳している。清水氏は<the Bay City cops>をマーロウを襲った二人組の警官と考えているようだが、ここはランドールが病院を調べるのに、ベイ・シティの警官ではなく<a state narcotics man>に電話したことを言っている。村上訳は「どうしてベイ・シティ―の警官に行ってもらわないんだ?」と、その辺りを補足している。

「君が何か良からぬことを企んでると思っただけだ」は<just thought you were trying to pull something>。清水訳は「君が何かやりはしないかと思っただけなんだ」。村上訳は「君がはったりをかましたと思っただけだ」。<pull>の口語には「(犯罪、詐欺などの)悪いことをする」という意味で使われることがあり、<trying to pull something>という例文もある。清水訳はそういう意味に取ることが可能だが、村上訳ではそうはならない。