marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第30章(2)

<throw ~over someone’s head>は「頭に~をかぶせる」

【訳文】

《玄関ドアの郵便受けに何かが押し込まれる音だった。チラシだったかもしれない。だが、そうではなかった。足音は玄関から歩道に戻り、それから通り沿いに歩いていった。ランドールはまた窓に行った。郵便配達人はミセス・フロリアンの家には止まらなかった。そのまま歩き続けた。重い革鞄を提げた青灰色の背中は穏やかで安定していた。
 ランドールは振り返り、おそろしく丁寧に質問した。「このあたりでは、郵便配達は朝に何回あるのですか、ミセス・モリスン?」
 彼女はその質問に果敢に立ち向かおうとした。「一回きりさ」彼女はそっけなく言った。「午前中に一回、午後に一回」
 彼女の目があちこちに飛び、兎の顎は進退窮まって震えていた。両手は青と白のエプロンの縁を飾るゴムのフリルをしっかり握っていた。
「朝の配達は今来たところです」ランドールはうっとりするように言った。「書留はいつもの配達人が持ってくるのですか?」
「あの女はいつも速達を受け取っていたよ」婆さんの声はしゃがれていた。
「なるほど。しかし、土曜日には彼女は家から走り出て、その配達人を呼び止めている。配達人が彼女の家に寄らなかったからです。あなたは速達のことは何も言わなかった」
 仕事中の彼を見ているのは楽しかった。私ではなく、他の誰かを相手にしていればだが。
 彼女の口は大きく開き、歯が見事な輝きを見せていた。溶液のグラスに一晩中浸けてあったせいだ。それから突然わめき立て、エプロンで顔を覆って部屋から駆け出して行った。
 彼は彼女が出て行ったドアを見ていた。それはアーチの向こうにあった。彼は微笑んだ。かなり疲れた笑顔だった。
「いい腕だ。大仰なところが微塵もない」私は言った。「次はそっちが憎まれ役をやってくれ。小母さん相手に憎まれ口を叩くのは気が重い―たとえ相手が食わせ者の事情通でもね」
 彼は微笑み続けていた。「よくある話だ」彼は肩をすくめた。「犯罪捜査なんて糞くらえだ。彼女は事実から始めた。知っていたからだ。しかし、そういつも都合良く事実は出て来ないし、刺戟も足りなさそうに見えたので、少し話に尾ひれをつけようとしたんだ」
 彼は振り向き、我々は玄関に出た。家の奥から微かに啜り泣くような音が聞こえてきた。たぶん疾うに死んでいるどこかの辛抱強い男を降参させる、それは最後の武器だったのだろう。私にとってはただの老婆の啜り泣きだった。そこには何の喜びもなかった。
 我々はそっと家を出た。網戸を鳴らさないようにそっとドアを閉めた。ランドールは帽子をかぶり、ため息をついた。それから肩をすくめ、よく手入れされた両手を体の脇に大きく広げた。家の奥からはまだ啜り泣きの微かな音が聞こえた。
 通りの二軒ほど先に郵便配達人の背中が見えた。
「犯罪捜査か」ランドールは小声でそっと呟いた。そして唇をねじ曲げた。
 我々は隣の家に向かって歩いた。ミセス・フロリアンは洗濯物を取り込んでいなかった。ごわごわの黄ばんだ衣類はまだ、横手の庭に張った針金の上で列を作って震えていた。我々は玄関のステップを上がって呼び鈴を鳴らした。返事はない。ノックをした。返事はない。
「この前は鍵はかかっていなかった」私は言った。
 彼は注意深く体で隠すようにして、ドアを試した。今回は鍵が掛かっていた。我々は玄関ポーチを降りて詮索好きな婆さんの家を避け、こっそりその周りを歩いた。裏のポーチには鉤の掛かった網戸がついていた。ランドールがノックした。何も起きなかった。彼はほとんどペンキの剥げた木の階段を二段下りて、使われなくなって草に埋もれた私道をたどって、木製のガレージを開けた。扉が軋んだ。ガレージはがらくただらけだった。使い古された流行遅れのトランクは壊して薪にする値打ちもない。錆びついた庭仕事の道具、古い空き罐、そんな物が箱にぎっしり詰まっていた。扉の両側の壁の隅に、丸々と太った黒後家蜘蛛が間に合わせのだらしない巣を張っていた。ランドールは木切れを拾って、上の空で蜘蛛を殺した。彼は再びガレージの扉を閉じ、雑草の生い茂る私道を歩いて玄関まで戻った。そして詮索好きな婆さんとは反対にあたる隣家のステップを上がった。呼び鈴にもノックにも返事は帰ってこなかった。
 彼はゆっくり戻ってきて肩越しに通りを見わたした。
「裏口のドアが一番簡単だ」彼は言った。「今なら隣の婆さんは何もしないだろう。嘘をつきすぎた」》

【解説】

「チラシだったかもしれない。だが、そうではなかった」は<It might have been a handbill, but it wasn't>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「業者の配るちらしの類かもしれない。しかしそうではなかった」と言葉を補っている。

「兎の顎は進退窮まって震えていた」は<The rabbit chin was trembling on the edge of something>。清水氏は「兎のような顎が、慄えているようだ」と訳している。<on the edge of>は「~の寸前(瀬戸際)で」という意味だ。ランドールの攻勢に必死に抵抗してきたが、もう無理というところ。村上訳は「そのウサギのような顎は、危機を迎えて細かく震えていた」。

「歯が見事な輝きを見せていた。溶液のグラスに一晩中浸けてあったせいだ」は<her teeth had the nice shiny look that comes from standing all night in a glass of solution>。清水氏は「歯が光っていた」と訳している。村上訳は「歯はきれいに輝いていた。一晩中グラスの中の溶液に漬けられていたのだろう」だ。

「エプロンで顔を覆って部屋から駆け出して行った」は<threw the apron over her head and ran out of the room>。清水氏は「前かけで顔を覆い、部屋から駆け出して行った」と訳している。村上訳は「頭からエプロンを脱ぎ捨て、部屋から走り出て行った」だ。この場合、別にあわててエプロンを脱ぐ必要はない。<throw ~over someone’s head>は「(人)の頭に~をかぶせる」という意味。老婆はこの後で泣き出している。「顔を覆った」と考える方が適切だろう。

「彼は彼女が出て行ったドアを見ていた。それはアーチの向こうにあった。彼は微笑んだ。かなり疲れた笑顔だった」は<He watched the door through which she had gone. It was beyond the arch. He smiled. It was a rather tired smile>。清水氏は「ランドールはその後を見送って苦笑した」と大幅にカットしている。村上訳は「ランドールは彼女が出て行ったドアを見ていた。アーチの向こう側にあるドアだ。彼は微笑んだ。疲れのにじみ出た微笑みだった」。ランドールの人柄がよく出ているところだ。「疲れた笑顔」と「苦笑」は別物だろう。

「いい腕だ。大仰なところが微塵もない」は<Neat, and not a bit gaudy>。清水訳では「見事だよ」。村上訳では「手際がいい。これ見よがしなところもない」。<gaudy>は「(俗っぽく)派手、けばけばしい」という意味。「これ見よがし」というのは、「得意そうに見せびらかす」という意味なので、村上訳のマーロウは、ランドールが人の目を意識して訊問していると見ているようだ。ここは、普通の刑事なら、権力をかさに着て、居丈高になるところなのに、ちっとも偉ぶらないランドールに対する誉め言葉ではないのだろうか。

「次はそっちが憎まれ役をやってくれ。小母さん相手に憎まれ口を叩くのは気が重い―たとえそれが食わせ者の事情通でもね」は<Next time you play the tough part. I don't like being rough with old ladies-even if they are lying gossips>。清水氏は「だが、愉快じゃなかった。相手が婆さんではね」と、ここも原文を無視した抄訳になっている。

村上訳は「次はあんたが憎まれ役をやるといい。高齢のご婦人にぞんざいな口を利くのは気が進まない。たとえ相手がろくでもない金棒引きの婆さんであってもね」。<old lady>には「(自分の)女房、かみさん、おふくろ」が第一義だが、「こうるさい人」という意味もある。「高齢のご婦人」という訳語には皮肉が込められていると見た方がいいだろう。

「彼は振り向き、我々は玄関に出た。家の奥から微かに啜り泣くような音が聞こえてきた。たぶん疾うに死んでいるどこかの辛抱強い男を降参させる、それは最後の武器だったのだろう。私にとってはただの老婆の啜り泣きだった。そこには何の喜びもなかった」は<He turned and we went out into the hall. A faint noise of sobbing came from the back of the house. For some patient man, long dead, that had been the weapon of final defeat, probably. To me it was just an old woman sobbing, but nothing to be pleased about>。

清水氏はこの一段落をまるまるトバしている。見落としたのだろうか。村上訳は「彼は振り向き、我々は玄関に向かった。家の奥からすすり泣きが微かに聞こえた。それはおそらく、ずっと前に死んだどこかの我慢強い男にとっては、白旗をあげざるを得ない最終的な兵器だったのだろう。しかし私にとっては、ただの年寄りの泣き声に過ぎなかった。そこには、心温まるものは何ひとつなかった」。

「裏のポーチには鉤の掛かった網戸がついていた」は<The back porch had a hooked screen>。清水氏はここを「裏口はよろい(傍点三字)扉だった」としている。鍵がかかっていることに触れていないのは探偵小説的には致命的なミスだ。村上訳は「裏のポーチの網戸には掛けがねがかかっていた」だ。