marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第33章(1)

<chew ~ over>は「~についてじっくり考える」

【訳文】

《車はひっそりとした住宅街に沿って静かに走っていった。両側からアーチ状に枝を伸ばした胡椒木が頭上で出会い、緑のトンネルを作っていた。高い枝と細く薄い葉を透いて陽の光がきらきら光った。角の標識に十八番街とあった。
 ヘミングウェイが運転し、私は隣に座っていた。彼はとてもゆっくりと車を走らせ、難しい顔で何か考えていた。
「どこまで話したんだ?」彼は訊いた。腹をくくったようだ。
「君とブレインがあそこに行って私を連れ出し、車から放り出して、後ろから頭を殴りつけた、と。後は話さなかった」
「<デスカンソ・二十三番>のことは?」
「話していない」
「どうしてしゃべらなかった?」
「あんたにもっと協力してもらえるかもしれないと思ったからさ」
「考えたものだ。本当にスティルウッド・ハイツに行きたいのか。それともただの口実か?」
「ただの口実さ。真の狙いはあの気ちがい病院に放り込んで監禁した理由を聞くことだ」
 ヘミングウェイは考えた。考え過ぎて、灰色がかった皮膚の下で頬の筋肉に小さなしこりができるほど。
「ブレイン」彼は言った。「あの脛肉の切り落とし。俺はあいつがあんたを殴るとは思っていなかった。あんたを歩いて家に帰らせるつもりもなかった。本当だ。俺たちはあの学者先生と友達でね、あれは厄介ごとを持ち込む手合いにお引き取りを願う、ただの芝居さ。あそこに厄介ごとを持ち込む人数の多さを知ったら、あんたもびっくりするよ」
「あきれるな」私は言った。
 彼は振り向いた。彼の両眼は氷の塊だった。それから彼は再びほこりっぽいフロントガラスの向こうを見つめ何やらまだ考えていた。
「年季の入った警官は時どき、無性にブラックジャックを使いたがる」彼は言った。「ぶん殴る機会を待ってるのさ。くそっ、ビビったよ。あんたはセメント袋みたいにばったり倒れた。俺はブレインにたっぷりと文句を言ってやった。それからあんたをソンダーボーグのところに連れて行った。近かったし、あいつはいいやつで、あんたの面倒を見てくれるだろうと考えてね」
「君たちが私をそこに連れて行ったことをアムサーは知ってるのか?」
「知るもんか。俺たちの考えさ」
「ソンダーボーグはいいやつだから、私の面倒を見てくれるだろう。それに手数料もとらない。私が苦情を言っても医者が後押しする見込みはない。もし苦情を申し立てたとして、このかわいらしい小さな街で、聞きいれられる機会がそうあるわけでもない」
「事を荒立てようという気なのか?」ヘミングウェイは考え込んだ様子で訊いた。
「私にその気はない」私は言った。「君だって今回に限っては同じだろう。なんとか首の皮一枚で繋がっているんだからな。署長のあの眼を見ただろう。私は信用証明書も持たずに入り込んだわけじゃない。今度ばかりは手順を踏んでる」
「オーケイ」ヘミングウェイはそう言って、窓から唾を吐いた。「もともと手荒な真似をする気はなかった。決まり文句で脅すだけさ。で、次は何だ?」
「ブレインの病気は本当なのか?」
 ヘミングウェイは肯いたが、どうしたわけか悲しそうには見えなかった。「本当だ。一昨日腹が痛み出して、切る前に盲腸が破裂しちまった。助かる見込みはあるが見通しは暗い」
「彼を失うのは惜しいな」私は言った。「あの手の男はどこの警察でも役に立つだろうに」
 ヘミングウェイはそれについてじっくり考えた。そして車の窓から唾を吐いた。
「オーケイ、次の質問だ」彼は溜め息をついた。
「私をソンダーボーグのところに連れて行った理由は聞いた。なぜ私が四十八時間も拘禁され、麻薬漬けにされたのかは聞いていない」
 ヘミングウェイは縁石の横でそっとブレーキをかけた。大きな両手をハンドルの下の方に並べて置いて、両の親指をそっと擦り合わせた。 
「俺には見当もつかない」彼は覚束ない声で言った。
「私は自分が私立探偵であることを示す書類を保持していた」私は言った。「車の鍵、いくらかの金、二枚の写真も。もし彼が君らの知り合いじゃなかったら、頭の傷は施設に探りを入れるためひと芝居打ったと考えたかもしれない。しかし、彼は君らをよく知っている。それで戸惑っている」
「戸惑ったままでいるさ。その方がよっぽど安全だ」
「その通り」私は言った。「だが、気持ちのおさまりがつかない」
「これについて、あんたの後ろでL.A.の司法当局が動いているのか?」
「何についてだって?」
「思案中のソンダーボーグについてさ」
「必ずしもそうとは言えない」
「それでは答えになっていない」
「私はそれほど大物じゃない」私は言った。「L.Aの司法当局は気が向いたらいつでもここに来ることができる―いずれにせよ、そのうちの三分の二は。保安官の部下や地方検事局の連中だ。検事局に友達がいる。私も以前そこで働いていたんでね。名前はバーニー・オールズ。主任捜査官だ」
「連絡は取ったのか?」
「いや、もうひと月も話をしていない」
「話そうと考えてはいるのか?」
「仕事の邪魔にならなければ、そうしたいところだ」
「探偵の仕事か?」
「そうだ」
「オーケイ、お望みは何だ?」
「ソンダーボーグの本業は何だ?」》

【解説】

「<デスカンソ・二十三番>のことは?」は<Not about Twenty-third and Descanso, huh?>。清水訳は「デスカンソ街の二十三丁目のことは話さなかったんだな?」。村上訳は「デスカンソ通り、二十三番通りのことは言ってない?」だ。<Twenty-third and Descanso>という言い方は、京都の「四条河原町」同様、直交する通りの名前を二つ並べてその座標を表すやり方だ。清水氏の訳ではそこがうまく伝わらないと見て、村上氏は工夫したつもりなのだろうが、これでは、二つの場所のようにも読めてしまう。

ヘミングウェイは考えた。考え過ぎて、灰色がかった皮膚の下で頬の筋肉に小さなしこりができるほど」は<Hemingway thought. He thought so hard his cheek muscles made little knots under his grayish skin>。清水氏はここをあっさりと「ヘミングウェイは眉をしかめて考えていた」と訳している。村上訳は「ヘミングウェイは考えた。あまりにじっくり考え込んだので、頬の筋肉がその灰色がかった皮膚の下で小さな結び目を作ってしまったくらいだ」と原文に忠実に訳している。

<「ブレイン」彼は言った。「あの脛肉の切り落とし。俺はあいつがあんたを殴るとは思っていなかった。あんたを歩いて家に帰らせるつもりもなかった。本当だ>は<“That Blane,” he said. “That sawed-off hunk of shin meat. I didn't mean for him to sap you. I didn't mean for you to walk home neither, not really>。清水氏はここを「俺たちは別に、君に恨みがあったわけじゃない」と作文している。

村上訳は<「ブレインにも困ったもんだ」と彼は言った。「あのがりがりのちび野郎。あいつがあんたの頭をぶちのめすなんて考えもしなかった。車からあんたを放り出して家まで歩かせるつもりだってなかった。こいつは嘘じゃない」と訳している。<sawed-off>は「(端を切って)短くした」という意味の他に「背が低い、ちびの」の意味がある。村上氏は「ちび」の意をとったのだろう。<sawed-off hunk of shin meat>は「脛肉の塊を切り落とす」という意味になる。

「ぶん殴る機会を待ってるのさ」は<They just got to crack a head>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「誰かの頭をぶちのめさないと気が済まないんだ」。<get to>には「機会を得る」という意味がある。直訳すれば「彼らはたまたま頭を割る機会を得た」。特にマーロウに関する恨みつらみはない。偶々そこにブラックジャックを食らわせるのに都合のいい後頭部があったというだけのことなんだろう。

「ソンダーボーグはいいやつだから、私の面倒を見てくれるだろう。それに手数料もとらない。私が苦情を言っても医者が後押しする見込みはない」は<On account of Sonderborg is such a nice guy and he would take care of me. And no kickback. No chance for a doctor to back up a complaint if I made one>。清水氏はここを「あそこなら後のたたりがないと考えたからだろう。ぼくが訴え出ようと思っても、診断書を書いてくれる医者はいないからね」と訳している。

前半はヘミングウェイの言い回しをマーロウがオウム返ししている部分なので、あっさりまとめると面白みがなくなるが、一般的な「苦情」の他に「病気、病状」の意味がある<complaint>を含む<to back up a complaint>を「診断書を書く」と訳すのはさすがに上手いものだ。村上訳は「ソンダボーグはいいやつだから、私の面倒を見てくれると思ったわけだ。そして口利き料もなし。こちらが苦情を申し立てても、ドクターがそのとおりですと認めるわけがない」。

ヘミングウェイは考え込んだ様子で訊いた」は<Hemingway asked thoughtfully>。清水氏は「ヘミングウェイは訊ねた」と<thoughtfully>をトバしている。村上訳は「ヘミングウェイは考え深げに言った」と<asked>をスルーしている。

「君だって今回に限っては同じだろう」は<And for once in your life neither are you>。清水氏はここをカットしている。<for once in your life>は「生涯に一度」の意味。村上訳は「君だって、何があろうとそんなことは望まないはずだ」。

「私は信用証明書も持たずに入り込んだわけじゃない。今度ばかりは手順を踏んでる」は
<I didn't go in there without credentials, not this trip>。清水氏は「ぼくには有力な後盾(うしろだて)がついてるんだと意訳し、例によってくnot this trip>をカットしている。村上訳は「私は手ぶらであそこに乗り込んだわけじゃない。今回は脇を固めてきたんだ」。

「もともと手荒な真似をする気はなかった。決まり文句で脅すだけさ」は<I didn't have any idea of getting tough in the first place except just the routine big mouth>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「俺としちゃそもそもことを荒立てるつもりはなかったんだ。いつもの筋書きどおり、適当に相手を脅して場をおさめる予定だった」と、例によって噛みくだいて訳している。

ヘミングウェイはそれについてじっくり考えた。そして車の窓から唾を吐いた」は<Hemingway chewed that one over and spat it out of the car window>。清水氏は「ヘミングウェイは私が言ったことを黙って嚥(の)みこんで自動車の窓から唾と一しょにはき出した」と訳す。村上訳は「ヘミングウェイはその言葉をひとしきり噛みしめた。そして車の窓からぺっと外に吐いた」。<chew ~ over>は「~について深く考える」の意味。

「彼は溜め息をついた」は<he sighed>。清水氏は「と、彼はいった」と訳している。村上訳は「と彼はため息混じりに尋ねた」だが、その前のヘミングウェイの言葉は<Okey, next question>で終わっていて<?>は付されていない。「分かったから、次の質問をしろよ」というのがヘミングウェイの気持ちではないのだろうか。

この場面のヘミングウェイは、最初に登場した時とはずいぶん様子がちがっている。年上で階級も上のブレインと組んで仕事をしているとき、ヘミングウェイは自分を偽って、頭の足りない刑事を装っていたのだろう。自分のやっていることを<routine big mouth>と言ってのけるあたりにそれがひしひしと感じられる。チャンドラーの小説は脇役の一人に至るまで、人物像がしっかり描き分けられている。