marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第33章(2)

<I was just telling you>は「だから言ったじゃないか」

【訳文】

ヘミングウェイはハンドルから手を放し、窓から唾を吐いた。「なかなか素敵な通りだと思わないか? 快適な家、きれいな庭、住みよい気候。あんたも悪徳警官についていろんなことを聞いてるだろう?」
「時々は」私は言った。
「オーケイ、何人くらいの警官がこんな結構な芝生や花壇付きの住宅街に住んでいると思う? 俺は四、五人知っている。みんな風紀犯罪取締班だ。旨い汁はみんなあいつらが吸っている。俺みたいな警官は裏町のちっぽけな木造家屋に住んでる。住んでるところが見てみたいか?」
「それは何を証明するんだ?」
「いいから聞けよ」大男は真面目くさって言った。「あんたは俺の首にひもをつけた気でいるが、そんなものいつでも切れる。警官が曲がったことをするのは金のためじゃない、大抵ちがう。むしろ少ないくらいだ。みんなシステムに巻き込まれるんだ。上に言われた通り従っているうちに抜き差しならない破目になる。そしてあの男、窓がいくつもある広く快適なオフィスに腰を据え、上等のスーツを着て、高級酒の匂いをさせ、種を噛んでりゃ菫の匂いがすると考えているだけの―あいつが命令を下しているわけでもない。分かるか?」
「市長というのはどういう男だ?」
「市長がどんな男かって? どこだって似たようなものだろう、政治家さ。あいつが命令してると思ってるのか? ばかなことを。この国の問題が何か分かってるのか、あんた?」
「凍結資本が多すぎるとは聞いている」
「人が正直でいたいと思っても、いられないところさ」ヘミングウェイは言った。「それがこの国の問題だ。そんなことしてたら有り金を巻き上げられてしまう。汚い真似をするか、食わないでいるかどっちかだ。出来損ないどもは、俺たちに必要なのは、こざっぱりしたシャツを着てブリーフケースを提げた九万人のFBI職員だとね。くだらん、巻き込まれる割合はあいつらだって俺たちと同じさ。俺が何を考えているか分かるか? この小さな世界はもう一度創り直さないといけないんだ。今こそ「道徳的再武装」の出番だ。いい思いつきだ。MRAさ。一理あると思うぜ、ベイビー」
「ベイ・シティがその仕組みの見本なら、私はアスピリンを飲むね」私は言った。
「しゃれたことを言ってりゃいいさ」ヘミングウェイはおだやかに言った。「自分じゃ気づいてないのかもしれない、たぶんな。しゃれたことを言おうと考えてると、ほかのことを考えられなくなるもんだ。俺は上の命令に従うただのケチな警官だ。俺には女房と二人のガキがいる。お偉方の言う通りに動く。ブレインなら何か言えるかもしれんが、俺は無学でね」
「ブレインは本当に盲腸炎なのか? 嫌がらせに自分の腹を撃ったんじゃないのか?」
「そんなことを言うもんじゃない」ヘミングウェイは文句を言って、上に置いた両手でハンドルをぱたぱた叩いた。「人間についてとっくりと考えてみることだな」
「ブレインについてもか?」
「彼だって人間さ―俺たちと同じ」ヘミングウェイは言った。「罪深い男だが彼も人間だ」
「ソンダーボーグの稼業は何だ?」
「だから言ったじゃないか。勘違いかもな。あんたは話の分かるやつだと思ってたんだが」
「君は彼の本業を知らない」私は言った。
 ヘミングウェイはハンカチを取り出して顔を拭いた。「こんなこと言いたかないが」彼は言った。「あんたも、もう分かってもいい頃だ。もし俺にしろブレインにしろ、ゾンダーボーグの正体を知っていたら、あんたをあそこに放り込まなかっただろうし、あんたも歩いて出てこれなかっただろう。俺がいうのは裏稼業のことだ。水晶玉で婆さんの未来を占うようなふわふわしたものじゃない」
「私を歩いて出て行かせるつもりはなかったろう」私は言った。「スコポラミンという薬がある。自白剤だ。自分でも知らないうちに内心を明かすことがある。催眠術みたいなもので、確実じゃない。だが、時々は効くこともある。私が何を知っているか聞き出そうとしてたんだろう。しかし、私に何か弱味を握られているかもしれないとソンダーボーグが気を回すとしたら、その出所は三つだけだ。アムサーが話したか、私がジェシー・フローリアンの家に行ったとムース・マロイが漏らしたか、私を担ぎ込んだのが警察の罠だと推量したか」
 ヘミングウェイは悲し気に私を見つめた。「急に話が見えなくなった」彼は言った。「誰なんだ、そのムース・マロイってやつは」
「このあいだセントラル・アヴェニューで人を殺した大男だ。テレタイプにのっている。もしあんたが読んでいたら。たぶん、今頃は事情に通じていただろう」
「だからどうだっていうんだ?」
「だから、ソンダーボーグがそいつを匿っていたんだ。あそこでやつを見た。ベッドで新聞を読んでいた。逃げ出した晩のことだ」
「どうやって抜け出したんだ。鍵がかかってなかったのか?」
「用務員をベッド・スプリングで殴ったんだ。運がよかった」
「その大男はあんたを見たのか?」
「見ていない」
 ヘミングウェイはアクセルを強く踏み込んで車を縁石から出した。満面の笑みが彼の顔に浮かんだ。「回収に行こう」彼は言った。「そら来た。これでつじつまが合う。ソンダーボーグはお尋ね者を匿っていた。もし大金を持ってれば、ということだけどな。あの病院は隠れ家としてお誂え向きだ。いい稼ぎにもなる」
 彼はアクセルを踏んで車を動かし、角を曲がった。》

【解説】

「ハンドルから手を放し」は<took his hands off the wheel>。清水氏はここをカットして「ヘミングウェイはまた窓から唾を吐いた」と訳している。村上訳は「ヘミングウェイはハンドルから両手を離し、窓の外に唾を吐いた」だ。

「あんたは俺の首にひもをつけた気でいるが、そんなものいつでも切れる」は<You got me on a string, but it could break>。清水訳では「君は俺のクビが細い糸でつながっているといった。細い糸にしろ、たしかに今はつながっている。しかし、いつ切れるかわからない」となっている。これはちがうのではないか。

<on a string>は「(操り人形のように)ひもでつながれて、意のままに操られて」の意味。清水氏は前のところで「しかし、君のクビが細い糸でつながっていることも忘れないでもらいたいね」と訳している。それに引きずられてしまったのだろう。村上訳は「俺はたしかにあんたに急所を握られているが、それくらいはなんとでもなる」。

「自分じゃ気づいてないのかもしれない、たぶんな。しゃれたことを言おうと考えてると、ほかのことを考えられなくなるもんだ」は<You might not think it, but it could be. You could get so smart you couldn't think about anything but bein' smart>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「あんたはそんなことはないと思うかも知れんが、危ないもんだ。気の利いたことにかまけていると、そのうちに洒落た目先にしか頭がいかなくなるのさ」。

「上に置いた両手でハンドルをぱたぱた叩いた」は<slapped his hands up and down on the wheel.>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「ハンドルの上で両手をぱたぱたと上下に叩いた」。

人間についてとっくりと考えてみることだな」は<Try and think nice about people>。清水訳は「可哀相に」、村上訳は「人のことをそうひどく言うもんじゃないぜ」と<people>を「ブレイン」と特定しているようだが、果たしてそうだろうか。<nice about ~>は「~を吟味する」という意味だ。それに続くマーロウの言葉は<About Blane?>だ。つまり「あんたのいう人間の中には「ブレイン」も入っているのか?」という意味になる。

「だから言ったじゃないか」は<I was just telling you>。清水訳は「いまいおうと思っていたんだ」。村上訳は「だからそのことを語ろうとしていたんじゃないか」。<I’m telling you>というのは日常的によく使われる言葉で、その直前、直後に言ったことを強調する表現。<was>が使われていることから、すでに語った内容を強めているのだろう。マーロウが同じ質問を繰り返したことに対して「言ったとおりだ」と言っているのだ。

ヘミングウェイは悲し気に私を見つめた」は<Hemingway stared at me sadly>。そのままだ。そこを清水氏は「ヘミングウェイは妙な顔をして、私を見つめた」と訳している。村上訳は「ヘミングウェイは悲しげな目で私を見た」だ。

「テレタイプにのっている。もしあんたが読んでいたら。たぶん、今頃は事情に通じていただろう」は<He's on your teletype, if you ever read it. And you probably have a reader of him by now>。清水訳は「人相書がまわっているだろう」だが、少々時代がかっている。村上訳は「テレタイプで手配書が回っているのを見たはずだ。読む気があればだが。今ではおそらく逮捕状が出ているだろう」だ。原文からは「逮捕状」のことはわからないのだが。