marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第34章(1)

<disappear into~>は「~の中に紛れ込む」。姿を消すことだ。

【訳文】

《海沿いのホテルのベッドに仰向けに寝ころび、暗くなるのを待った。海に面した小さな部屋でベッドは硬く、マットレスはそれを覆っている木綿の毛布より少しだけ厚かった。スプリングがひとつ壊れていて背中の左側に食い込んだ。私はそこに寝転んで、食い込むがままにさせておいた。
 赤いネオンサインが天井にぎらぎらと反射していた。部屋全体が赤くなる頃には外に出るに頃合いの暗さになるだろう。外のスピードウェイと呼ばれる裏通りで、車がクラクションを鳴らしていた。窓の下の歩道を行く足音がした。ざわめきとつぶやきがあたりを行き交う気配があった。錆びた網戸から流れ入る空気には、使い古した揚げ油の匂いがした。遥か彼方では、遥か彼方からでも届く類の声が叫んでいた。「腹が減ったろう。みんな、腹が減ったろう。旨いホットドッグだよ。腹は減ってないかい」
 暗くなった。私は思いめぐらしていた。思いは頭の中を、まるで冷酷でサディスティックな目に見張られてでもいるみたいに、ゆっくりと抜き足差し足で進んだ。口の端に黒い血をこびりつかせて、月のない空を見上げる死んだ目を思った。汚いベッドの柱にもたれて殴り殺された根性曲りの老いた女を思った。何かを怖れながら、何を怖れているのか知らなかった明るい金髪の男を思った。何かが間違っていると気づく程度には敏感だったが、何が間違っているのかを推測するには虚栄心が強すぎたか、鈍すぎた。手に入れられたかもしれない美しい金持ち女のことを思った。それとは別に、やはり手に入れられたかもしれない、気のいい、ほっそりしてて、好奇心の強い、一人暮らしの娘のことを思った。警官のことを思った。ヘミングウェイのような、賄賂にまみれていても性根まで腐りきっていないタフな警官。ワックス署長のような、商工会議所会頭のように話す、太った裕福な警官。ランドールのような、スリムで、抜け目がなく、粘り強い警官。彼らは頭も切れ、やる気もあるが、思うようにきれいな方法できれいな仕事をさせてもらえない。ナルティのように挑戦することをあきらめた不貞腐れた老いぼれのことを思った。インディアンを、霊能者を、ヤク中の医者を思った。
 いろんなことを思った。暗さが増した。赤いネオンのぎらつきが天井を越え、どんどん広がっていった。私はベッドの上に起き上がって足を床に下ろし、首の後ろを揉んだ。
 立ち上がって部屋の隅にある洗面台のところまで行き、冷たい水で顔を洗った。しばらくすると僅かではあるが、気分がいくらかよくなった。私には酒が必要だった。高額の生命保険が必要だった。休暇が必要だった。田舎に家が必要だった。私が持っていたのは上着と、帽子と銃だった。私はそれらを身につけて部屋を出た。
 エレベーターはなかった。廊下には悪臭が漂い、階段の手すりは汚れがこびりついていた。私は階段を下りた。机の上に鍵を投げ、引き払うと言った。左のまぶたに疣のあるメキシコ人のフロントが頷くと、すり切れた制服を着たベルボーイが、カリフォルニア一埃っぽいゴムの木の後ろから、私の荷物を運ぶためにやってきた。私は荷物など持っていなかった。それでもやはり、彼はいかにもメキシコ人らしく、私のためにドアを開け、礼儀正しく微笑んで見せた。
 外の狭い通りは賑わい、歩道は腹を膨らませた男で溢れていた。通りの向かい側にあるビンゴ・パーラーは大盛況で、その隣の写真館から、女の子を連れた二人の水夫が出てきた。おそらく駱駝に乗った写真でも撮っていたのだろう。ホットドッグ売りの声が斧のように夕闇を切り裂いた。大きな青いバスが警笛を鳴らしながら通りを走り、以前路面電車を回す転車台だった小さなロータリーに向かって行った。私はそちらの方に歩いて行った。
 やがて微かに海の匂いが漂ってきた。ほんの少し。まるで、かつてここが美しく広々とした海岸で、寄せくる波が泡立ち、風が吹き、人は、熱い脂と冷たい汗以外の匂いを嗅ぐこともできたことを、人々に思い出さようとするためだけに、今まで残していたかのように。
 広いコンクリート舗装路に沿って遊覧車がやってきた。私はそれに乗り、終点で降りてベンチに座った。そこは静かで涼しく、足元には大きな茶色の海藻の山ができていた。沖合いで賭博船に灯りがついた。次の遊覧車がやってきたとき、それに乗り、出てきたホテル近くに戻った。もし誰か私をつける者がいたとしたら、動かずにすんだわけだ。本当にいるとは思っていない。こんなクリーンな小さな街で、刑事が尾行の腕を磨けるほど、犯罪は起きないにちがいない。
 黒い桟橋は端から端まで輝き、やがて夜と水の暗い背景の中に姿を消した。まだ揚げ脂の匂いはしていたが、海の匂いを嗅ぐこともできた。ホットドッグ売りが声を上げていた。「腹が減ったろう。みんな、腹が減ったろう。旨いホットドッグだよ。腹は減ってないかい」》

【解説】

「私はそこに寝転んで、食い込むがままにさせておいた」は<I lay there and let it prod me>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「でも私はそこに寝ころんで、そいつの好きにさせておいた」だ。<prod>は「突く」の意味。

「部屋全体が赤くなる頃には外に出るに頃合いの暗さになるだろう」は<When it made the whole room red it would be dark enough to go out>。清水氏はここを「部屋の空気を赤く染めていた」と後半部をカットしている。村上訳は「それが部屋全体を染める頃には、外は出て行くのに十分なくらい暗くなっているだろう」。

「窓の下の歩道を行く足音がした。ざわめきとつぶやきがあたりを行き交う気配があった」は<Feet slithered on the sidewalks below my window. There was a murmur and mutter of coming and going in the air>。清水訳は「通行人の足音も絶えなかった。空気が絶えず動いているような感じだった」。村上訳は「部屋の窓の下の歩道からは、すり足のような足音が聞こえた。行き来する人々のもそもそした呟きが、風に運ばれてきた」だ。両氏とも<in the air>を文字通りに「空中に」と取っているのだろう。

「遥か彼方では、遥か彼方からでも届く類の声が叫んでいた」は<Far off a voice of the kind that could be heard far off was shouting>。清水訳は「遠くから売子の叫ぶ声が聞こえていた」。村上訳は「ずっと遠くの方では、ずっと遠くからでも耳に届く類の声が叫んでいた」。

「思いは頭の中を、まるで冷酷でサディスティックな目に見張られてでもいるみたいに、ゆっくりと抜き足差し足で進んだ」は<and thought in my mind moved with a kind of sluggish stealthiness, as if it was being watched by bitter and sadistic eyes>。清水訳は「私はベッドに横たわったまま考えていた」だ。村上訳は「私の頭の中の動きは、まるで容赦なきサディスティックな目に睨まれているみたいに、勢いなくこそこそしていた」。

「何かが間違っていると気づく程度には敏感だったが、何が間違っているのかを推測するには虚栄心が強すぎたか、鈍すぎた」は<who was sensitive enough to know that something was wrong, and too vain or too dull to guess what it was that was wrong>。清水訳は「」それがなんであるかがわからないので、どうすればいいか、判断がつかなかった」。村上訳は「彼は何かが間違っていることに気づく程度には勘が働くのだが、何が間違っているのか推察するには、あまりにも無思慮であるか、それとも浅薄なのだ」だ。無思慮と浅薄は、比較の対象としては、あまりに似通っていないだろうか。

「それとは別に、やはり手に入れられたかもしれない、気のいい、ほっそりしてて、好奇心の強い、一人暮らしの娘のことを思った」は<I thought of nice slim curious girls who lived alone and could be had too, in a different way>。清水氏は「それとはちがう意味でだが、こっちの出方次第ではやはり自由になる不思議な娘」と訳している。村上訳は「気だてが良くて、ほっそりとして、好奇心の強い、一人暮らしの娘たちのことを思った。彼女たちを手に入れることだってできたかもしれない――違うやり方ではあるけれど」だ。確かに原文は複数になっているけれど、わざわざ「娘たち、彼女たち」と訳す必要があるだろうか。

「ランドールのような、スリムで、抜け目がなく、粘り強い警官。彼らは頭も切れ、やる気もあるが、思うようにきれいな方法できれいな仕事をさせてもらえない」は<Slim, smart and deadly cops like Randall, who for all their smartness and deadliness were not free to do a clean job in a clean way>。清水訳は「ランドールのような、腕もあるし、職務にも忠実でありながら、その敏腕と誠実を公用に用いることのできない警官」。

村上訳は「痩身で頭の切れる、腕利きの警官たち。たとえばランドールのような。彼らはどれだけ頭が切れて腕利きであっても、クリーンなやり方でクリーンな結果をあげる自由が与えられていない」。<deadly>を、清水氏は「職務に忠実」、村上氏は「腕利き」と解釈している。しかし、ここは、同じ警官として、ワックス署長との比較で<sim>(細身)を、そして、ナルティとの比較で<deadly>(執念深い)を持ってきたと考えられないか。

「階段の手すりは汚れがこびりついていた」は<the stairs had grimed rails>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「階段の手すりはべたついていた」。もう一つ「カリフォルニア一埃っぽいゴムの木の後ろから」<came forward from behind the dustiest rubber plant in California to take my bags>も清水氏はカット。村上訳は「カリフォルニア広しと言えど、これほど汚れたゴムの木はあるまいと思えるゴムの木の裏から」。

「外の狭い通りは賑わい、歩道は腹を膨らませた男で溢れていた」は<Outside the narrow street fumed, the sidewalks swarmed with fat stomachs>。清水氏はお疲れだったのだろうか、「ホテルの表は道路だった」と訳している。普通、ホテルの前は道路だろう。村上訳は「外に出ると、狭い通りはすっかり賑やかになっていた。太鼓腹の男たちが歩道に溢れていた」。

「黒い桟橋は端から端まで輝き、やがて夜と水の暗い背景の中に姿を消した」は<The black piers glittered their length and then disappeared into the dark background of night and water>。清水訳は「暗い船着場がサーチライトに照らされて、その長さを見せてから、再び夜の水と暗い背景の中に姿を消した」。村上訳は「黒い桟橋は先端まで派手に明るく輝いていたが、その向こうには暗い夜と海が広がっているだけだ」。

清水氏にしては珍しく、言葉を補って分かりやすく読み解いている。船着場は本来は暗いが、光を浴びた一瞬だけ明るくなり、すぐに暗くなる、と読んだのだ。村上氏は明るく照明された桟橋から視線を移動させ、その先には暗い海しかない、と見たのだ。さて、どちらが正しいのか。原文を読む限り<The black piers >が、きらきら輝いて、それから(and then)<the dark background of night and water>の中に<disappear>した、としか読めない。つまり、桟橋が闇の中に紛れ込んだのだ。村上訳では桟橋は明るく輝いたままだ。