marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第37章(1)

<to make a splash>は「水しぶきを上げる」ではなく「大評判をとる」

【訳文】

回転するサーチライトは 霧を纏った青白い指で、船の百フィートかそこら先の波をかろうじて掠めていた。体裁だけのことだろう。とりわけ宵の口のこの時刻とあっては。賭博船のいずれか一方の売り上げ金強奪を企むとしたら大勢の人数が必要だ。襲撃は朝の四時頃になる。その頃なら客も諦めの悪い賭博師数人に間引かれ、乗組員も疲れでぐったりしている。それでも金儲けの手段としては悪手だ。一度試した者がいる。
 水上タクシーが旋回して浮き桟橋に横づけし、客を降ろして岸の方へ戻っていった。レッドはサーチライトの光の届かない位置で、快速艇をアイドリングさせていた。もし面白半分に数フィートばかり持ち上げられたら―しかしそんなことは起きなかった。光は気怠げに単調な水を照らして通り過ぎた。快速艇は光の通り道を横切り、船尾から伸びる二本の太い錨綱をすり抜けて、張り出し部分の下にすばやく潜り込んだ。そして、船体についた油塗れの鉄板におずおずと躙り寄った。まるでロビーにいる売春婦にお引き取りを願おうとしているホテルの探偵のように。
 両開きの鉄の扉が頭上高くにぬっとのしかかった。それは手が届かないほど高く、もし手が届いたとしても、開けるには重すぎるように見えた。快速艇はモンテシートの古ぼけた側面をこすり、足の下ではうねる波がひたひたと船底を叩いていた。傍らの暗闇に大きな影が浮かび上がり、巻かれたロープが滑るように空中を上がっていき、何かに引っかかり、端が落ちて水しぶきを上げた。レッドは鍵竿で釣り上げ、しっかりと引っ張って、端をエンジンのカウリングのどこかに固定した。霧が立ち込めて、何もかもが非現実的に思えた。湿った空気は愛の燃え殻のように冷たかった。
 レッドが私の方に屈みこみ、息が私の耳をくすぐった。「船体が高く上がり過ぎている。強い波が一撃すればスクリューがまる見えだ。それでもこの鉄板を上っていくしかない」
「待ち切れないな」身震いしながら、私は言った。
 彼は私の両手を舵輪に置き、望む通りの位置まで回し、スロットルを調節し、ボートを今の状態で保つように言った。鉄板の近くに鉄の梯子がボルト留めされていた。船体に沿ってカーブし、横桟は油塗れの棒のように滑りやすいだろう。
 そいつを上るのはビルディングの軒蛇腹を乗り越えるのと同じくらいそそられた。レッドは、ズボンに手を強くこすりつけてタールをつけた。それから梯子に手を伸ばし、静かに体を引っ張り上げた。うなり声一つ立てなかった。スニーカーが金属の横桟に引っかかった。そして体をほとんど直角にして踏ん張った。もっと牽引力を得るためだ。
 サーチライトの光は今では我々から遠く離れた場所を掃照していた。光が水に跳ね返り、私の顔を炎のように揺らめかせたが、何も起きなかった。頭上で蝶番が軋む重く鈍い音がした。黄味を帯びた光がほんの僅か霧の中に漏れ出てやがて消えた。搬入口の輪郭が半分見えた。内側から掛け金がかけられていなかったらしい。どうしてなのか、訳が分からない。
 囁き声が聞こえた。意味をなさないただの音だった。私は舵輪から手を離して上り始めた。それは今までやった中で最も辛い旅だった。息を切らし、喘ぎながら着いたのは、饐えた臭いのする船倉で、荷造り用の箱や樽、巻かれたロープ、錆びた鎖の塊などが散乱していた。隅の暗がりで鼠が甲高い声を上げた。黄色い光は向こう側の狭いドアから漏れていた。
 レッドが私の耳に唇を近づけた。「ここをまっすぐ行くと、ボイラー室の狭い通路に出る。補助動力の一つに蒸気を焚いてるんだ。このおんぼろ船にはディーゼルがないからな。船倉にいるのは多分一人だけだ。乗組員は甲板に上がって一人何役もこなしている。胴元、監視人、ウェイター等々。誰もが船の乗組員らしく見えなきゃならない、そういう契約なんだ。ボイラー室からは格子の嵌っていない通風孔にご案内だ。そこからボート・デッキに行ける。ボート・デッキは立入禁止になってるが、気儘にやってくれ―息のあるうちに」
「船に親戚でも乗ってるみたいだな」私は言った。
「もっと妙なことがいくらでも起きてるよ。すぐに戻ってくるかい?」
「ボート・デッキからは、好印象を与えるようにしないと」と言って、私は財布を取り出した。「割増料金がいるだろう。取ってくれ。死体の取り扱いは自分と同じように丁重にな」
「あんたはもうこれ以上俺に借りはない」
「帰りの運賃を払っておこうというのさ。たとえ使うことがなくてもな。泣き出して君のシャツを濡らす前に取ってくれ」
「上で手助けはいるか?」
「必要なのは、滑らかに動く舌なんだが、蜥蜴の背中みたいな代物しか持ち合わせがない」
「金はしまっておけ」レッドは言った。「帰りの料金は支払い済みだ。怖いんだろう」彼は私の手を取って握った。その手は強く、硬く、温かくて、少しべとついていた。「怖いのは分かる」彼は囁いた。
「乗り越えてみせるさ」私は言った。「何とかして」

【解説】

「賭博船のいずれか一方の」は<one of these gambling boats>。清水訳は単に「賭博船」。村上訳は「この二隻の賭博船の」だ。<one of these>は「どちらか一つ」の意味なので、両氏の訳は正しくない。

「その頃なら客も諦めの悪い賭博師数人に間引かれ」は<when the crowd was thinned down to a few bitter gamblers>。清水訳は「客が減り」と<a few bitter gamblers>はスルーしている。村上訳は「その時刻には客の数も減って、せいぜい数人の負けっぷりの悪い連中だけになっている」と訳している。<bitter>を「負けっぷりの悪い」と噛みくだいてみせるところはさすがだが<gambler>はプロの賭博師のことだ。一般客と同じように扱うのはどうだろう。

「船体についた油塗れの鉄板におずおずと躙り寄った。まるでロビーにいる売春婦にお引き取りを願おうとしているホテルの探偵のように」は<We sidled up to the greasy plates of the hull as coyly.as a hotel dick getting set to ease a hustler out of his lobby>。清水氏は「船体の油だらけの鉄板が、ホテルの探偵がゆすり(傍点三字)に来た男をロビイに入れまいとするように、私たちのすぐ眼の前にあった」と訳している。

村上訳は「そしてまるでホテルの探偵がロビーから売春婦にお引き取り願おうとするときのように、船体についた油だらけの何段かの平板(ひらいた)にさりげなくにじりよった」。<hustler>には「やり手、詐欺師、街娼」などの意味がある。ここは<coyly>(はにかんで、恥ずかしそうに)が鍵になる。強請りに来た男を追い払うのに「恥ずかしそうに」する探偵はいない。清水氏は<We sidled up>を読み飛ばしたのだろう。<sidle up>は「にじり寄る」という意味だ。

「両開きの鉄の扉が頭上高くにぬっとのしかかった」は<Double iron doors loomed high above us>。清水氏は例によって「眼をあげると、二重の鉄の扉が見えた」とやっている。開いてもいないのに二重だと分かるわけがない。村上訳は「両開きの鉄扉が頭上に見えた」。<loom>は「(闇などから)ぬっと現れる,ぼんやりと大きく見えてくる」という意味だ。この場合は霧の中から、突然現れたのだろう。

「そいつを上るのはビルディングの軒蛇腹を乗り越えるのと同じくらいそそられた」は<Going up it looked as tempting as climbing over the cornice of an office building>。清水訳は「ビルディングの壁を登るのと同じようなものだ」。「軒蛇腹」(cornice)というのは、雨仕舞のためにつけられた古典建築の建物の最上部に突出した庇状の部分のこと。壁の一部ではあるが、壁ではない。村上訳は「その梯子を上っていくことは、高層ビルについたでっぱりを越えるのと同じくらい心をそそった」。

「それは今までやった中で最も辛い旅だった」は<It was the hardest journey I ever made>。清水訳は「一時間もかかったような努力だった」。どうしてこういう訳にしたのか、その意図が分からない。村上訳は「それは私がこれまで辿った道のりの中で、最も困難をきわめた代物だった」。洒落た言い回しだが、原文はもっと直截的だ。

「このおんぼろ船にはディーゼルがないからな」は<because they don't have no Diesels on this piece of cheese>。清水訳は「ディーゼル・エンジンはないんだ」と<on this piece of cheese>をスルーしている。村上訳も「この船にはディーゼル・エンジンがついていないからね」とチーズについては知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる。

<like a piece of Swiss cheese>という例文がある。「スイスチーズのように(穴だらけ)」から転じて「(激しい銃撃を受けて)ハチの巣状態に、ボコボコにされて」という意味。貨物船のおんぼろ具合を揶揄っているのだろう。

「ボート・デッキは立入禁止になってるが、気儘にやってくれ―息のあるうちに」は<the boat deck is out of bounds. But it's all yours-while you live>。清水訳は「ボート・デッキは立入禁止になっているんだが、そこまで出られれば何とかなるだろう。それまで生命(いのち)があればだが……」。<it's all yours>も<while one lives>も、よく使われる言い方だ。前者は「すべては君のものだ」つまり「どうぞご自由に」という意味。後者は「息のあるうちに、目の黒いうちに」の意味。

村上訳は「(パイプは船の甲板に通じていて、)そこは客には立入り禁止になっている。しかしあんたはそこを自由に歩くことができる。つまり生きているあいだは、ということだがな」。村上氏は「ボート・デッキ」(端艇甲板)をただの「甲板」と訳している。その前の<play decks>も同じく「甲板」だ。船にはいくつもの甲板がある。きちんと訳し分けないと、客の立入り禁止になっている場所で賭け事が行われていることになる。さすがにそれはまずいだろう。

「ボート・デッキからは、好印象を与えるようにしないと」は<I ought to make a good splash from the boat deck>。清水訳は「ボート甲板(デッキ)から先がうまくゆけば……」。村上氏はここにいたっても「ボート・デッキ」を無視し「海に放り込まれたら耳に届くはずだ」と訳している。<to make a splash>は「水しぶきを上げる」ではなく「あっと言わせる、大評判をとる」など、多くの人々に注目されたり、強い印象を与えたりすることを意味するイディオムだ。

「割増料金がいるだろう。取ってくれ。死体の取り扱いは自分と同じように丁重にな」は<I ought to make a good splash from the boat deck, I think this rates a little more money. Here. Handle the body as if it was your own>。清水訳は「約束の料金では安すぎる。この中の要るだけ取ってくれ」と、後半をカットしている。村上訳は「そうなると、余分の手間賃が必要だろう。受け取ってくれ。自分の死体だと思って丁重に扱ってくれよな」

「必要なのは、滑らかに動く舌なんだが、蜥蜴の背中みたいな代物しか持ち合わせがない」
は<All I need is a silver tongue and the one I have is like lizard's back>。清水訳は「舌さえあればいいんだ。しかし、自信はないね」。<silver tongue>というのは「弁舌の立つこと、雄弁」の意味。銀食器のような滑らかさをいうのだろう。村上訳は「必要としているのは、銀の滑らかな舌なんだが、あいにく、持ち合わせているのはトカゲの背中みたいな代物だ」。

「その手は強く、硬く、温かくて、少しべとついていた」は<His was strong, hard, warm and slightly sticky>。清水訳は語順を入れ替え「かたくて、温かくて、強そうな手だった」とし、コールタールのべたつきを訳していない。こういう細かなところに神経を使うのがチャンドラーという作家なのだが。村上訳は「彼の手は強くて、硬くて、温かくて、僅かにべたべたしていた」。