marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(4)

<The things I do>は「俺もずいぶん忙しい人間らしい」だろうか?

【訳文】

 彼はしばらくじっと坐っていた。それから身を乗り出して机越しに銃を私の方に押してよこした。
「俺がやっているのは」彼はまるでその場に独りでいるみたいに物思いにふけった。「街を仕切り、市長を当選させ、警官を買収し、麻薬を売り捌き、悪党を匿い、老婦人の首から真珠を奪いとることか。時間がいくらあっても足りない」彼は短く笑った。「何とも忙しいことだ」
 私は銃に手を伸ばし、脇の下に押し込んだ。ブルネットは立ち上がった。「何も約束はしない」彼は私に目を据えて言った。「でも、君を信じるよ」
「約束までは期待していない」
「これだけのことを聞くために、大層な運試しをしたものだな」
「そうだな」
「さてと」彼は意味のない動きをして、机越しに手を差し出した。
「お人好しと握手してくれ」彼はそっと言った。
 私は握手した。手は小さく、硬く、少し熱かった。
「どうやって搬入口のことを見つけたのか、言う気はないんだな?」
「できないが、教えてくれたやつは悪党ではない」
「言わせることはできる」彼はそう言ってから首を振った。「いや、一度君の言うことを信じたからには、それも信じよう。そこに座ってもう一杯やっていてくれ」
 彼はブザーを押した。後ろのドアが開いて、見た目のいいタフガイの一人が入ってきた。
「ここにいて、酒が切れたらお代わりを用意しろ。手荒な真似はなしだ」
 殺し屋は腰をおろして私の方を見て静かに微笑んだ。ブルネットは急いで部屋を出て行った。私は煙草を吸った。酒を飲み終えると、殺し屋がお代わりを作ってくれた。私はそれも飲み干し、もう一本煙草を吸った。
 ブルネットが戻って来て部屋の角で手を洗い、また机の向こうに腰をおろした。殺し屋に顎をしゃくった。殺し屋は黙って部屋を出て行った。
 黄色い眼が私を検分していた。「君の勝ちだ、マーロウ。私は百六十四人の男を乗員リストに載せているんだが―」彼は肩をすくめた。「君はタクシーで帰ることができる。誰にも邪魔はされない。メッセージの件だが、心当たりをいくつか当ってみよう。お休み。君の実地教授に礼を言うべきだろうな」
「お休み」私はそう言って立ち上がり、部屋を出た。
 乗船用の台には別の男がいた。岸まで別のタクシーに乗った。私はビンゴ・パーラーに足を運び、人混みに紛れて壁にもたれた。
 数分もすると、レッドがやってきて、私の隣で壁にもたれた。
「簡単だったろう?」番号を読み上げる男の重くはっきりした声に逆らうように、レッドがそっと言った。
「礼を言わなきゃな。彼は乗ってきた。気にしていたよ」
レッドは周囲を見わたして、唇をもう少し私の耳に近づけた。「男は見つかったのかい?」
「いや、しかし望みはある。ブルネットがメッセージを伝える方法を探してくれる」
 レッドは首を振り、またテーブルの方を見た。欠伸をし、壁から離れて背を伸ばした。鷲鼻の男がまたやってきた。レッドは彼の方に足を踏み出して言った。「よう、オルソン」そう言って、男を突き飛ばすようにしてその前を通り過ぎた。
 オルソンは苦々しく後ろ姿を見送ったが、やがて帽子をかぶり直した。それから忌々し気に床に唾を吐いた。
 彼が行ってしまうと、私は店を出て、車を停めておいた線路沿いの駐車場に引き返した。
 私はハリウッドに引き返し、車を置いて、アパートに上がった。
 靴を脱ぎ、靴下だけになり、足指で床を感じながら歩きまわった。今でも、たまに痺れることがある。
 それから、壁から引き下ろしたベッドの端に腰をおろし、時間を計ろうとした。できない相談だった。マロイを見つけるには多くの時間や日数が掛かるにちがいない。警察に逮捕されるまで見つからないかもしれない。いつか警察が逮捕するとして―生きてるうちに。

【解説】

「俺がやっているのは」は<The things I do>。清水訳は「俺がしていることは……」。村上訳は「俺もずいぶん忙しい人間らしい」。村上訳は、そのあとに二回繰り返される<What a lot of time (I have)>のほうだろう。氏は二回目の<What a lot of time>のほうも「おかしいねえ」と訳を変えている。時々、こうして小説家としての顔をのぞかせるところが興味深い。

「見た目のいいタフガイの一人が入ってきた」は<one of the nice-tough guys came in>。清水訳は「用心棒の一人が入って来た」と、男を特定していない。多分、これは、前に出てきた<One of the velvety tough guys>と同一人物だろう。もう一人の方は「ゴリラ」と呼ばれているいかつい男だ。村上訳は「なりの良いタフガイの一人が中に入ってきた」だ。

「殺し屋は腰をおろして私の方を見て静かに微笑んだ」は<The torpedo sat down and smiled at me calmly>。清水訳は「用心棒は椅子に腰をおろし、私の方を向いて微笑した」。村上訳は「用心棒は腰をおろし、私に穏やかに微笑みかけた」。<torpedo>は「魚雷」のことだが、<米俗>では「プロのガンマン、殺し屋』を意味する。マーロウは、この男をブルネットに命じられたら殺しも辞さない男だと見ている。「用心棒」では役不足ではないか。

「殺し屋がお代わりを作ってくれた」は<The torpedo made me another>。清水訳は「用心棒がまたハイボールを作ってくれた」となっている。原文にはこの酒のことは<drink>としか書かれていないが、清水氏は一貫して「ハイボール」説をとっている。それには訳がある。<mix>、<make>という語が使われているので、ただ注いでいるだけでないことが分かるからだ。村上訳は「用心棒がお代わりを作ってくれた」で、酒の種類は特定していない。何しろ相手はプロのガンマンだ。作るとしてもウィスキー・ソーダくらいだろうが、それはそれで、ちょっといい気分かも知れない。

「彼が行ってしまうと、私は店を出て、車を停めておいた線路沿いの駐車場に引き返した」は<As soon as he had gone, I left the place and went along to the parking lot back towards the tracks where I had left my car>。清水氏は「私は店を出て駐車場から車を出しハリウッドへ戻った」と、次の文とひとまとめに訳している。村上訳は「彼が行ってしまうと、私はそこを出て、車を停めた線路近くの駐車場に向かって歩いた」。

「警察に逮捕されるまで見つからないかもしれない。いつか警察が逮捕するとして―生きてるうちに」は<He might never be found until the police got him. If they ever did-alive>。清水訳は「もし、警察の手で捕えることができたとしても、死んでいるかもしれないのだ」。村上訳は「その前に、警察に捕まるかもしれない。もし彼らに捕まえられれば――それも生きて捕まえられれば、ということだ」。